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真宗大谷派 浄影寺


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                 法 話

 

今を生きていますか

浄影寺・釋弘道

 

2014年10月16日から22日、仙台教区気仙組(大船渡市・陸前高田市など)の大谷派寺院7ヶ寺で定例法座が開催され、当浄影寺から副住職が出向いたしました。法話抄録を掲載します。

 

【はじめに】

「今を生きていますか」という言葉は親鸞聖人からの問いかけです。私たちの生き方が本当に「今」を生きているのかどうか。「今、生きているんだ」という、この命が弾んでいくような実感を持って生きているのかどうか、そんな問いかけがあります。

私たちの生活を振り返りますと、「今」という時を生きているというよりも、何か毎日、将来の準備に追われながら生きているようです。例えば、私たちは幼い頃から、何処かにバラ色の世界を描いて人生設計をし、準備をしていくわけです。

ところが、段々とバラ色の世界が色あせていく。「こんなはずじゃなかった」と。しかし昨今では、そんなバラ色の世界どころか、夢を描くことすら出来ないほど、先が見えない状況になっているのが現代の問題でしょう。

 

【準備のための人生?】

とにかく、私たちが人生と言っている中身は、実は、老後の自適な生活を夢見て、その準備のために生活があると言っても過言ではないのではないですか?例えば、自適な老後を送るために、まず幼稚園に入ると小学校の準備、小学校に入ると中学校の準備、中学や高校は大学の準備、大学に入ると良い就職のための準備、そして就職し、結婚して子供や孫に恵まれて、やっと自適な老後の生活と思ったら、健康に不安を抱え、自分の葬儀やお墓のことを考えてお金を貯めていく…。

このようにして、一生を終えていくなら、一体、人生と言っても準備を積み重ねていただけではなかったのか。常に、何かの準備に追われ、その時その時に与えられた命を生きたという実感がなかったということになりはしないかと思うのです。

つまり、「今」を生きていない。「今」という命を喜べていないのです。準備をしても、全てが予定通りにいくとは限らないわけですので、結果、自分の人生に納得がいかないことになるわけですね。

そういう私たちに対して親鸞聖人は、「あなたの人生の中で、最後に何が残ったのですか?「今」という命を、本当に生きてきましたか?」と問いかけているのです。

 

【時が熟す「今」】

親鸞聖人がお書きになったものを読みますと、「今」「今日」「現に」という言葉が多くみられます。「今」というこの時を逃しては、永久に出遇うことが出来ない仏法、そして、命を頂いているこの身であったと、実感をもって語られているのです。

例えば、親鸞聖人の『教行信証』には「遇いがたくして遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」、あるいは「仏道・人身得難くしてすでに得たり」という表現で、お念仏の教えに出遇った大きな感動、そしてその教えを聞くために誕生した「命」への感動を語られています。万に一つも出遇えるかどうか分からない、しかし今、出遇わせていただいている。そうした驚きと感動がこの「今、得たり」という言葉になっているのです。

そして、そもそも私ども浄土真宗の根本経典である『無量寿経』では釈尊が弟子の阿難に対して「諦らかに聞け、、汝がために(阿弥陀仏の教えを)説かん」と語られていますが、この「今」というのは単なる今ではなくて「時が熟した」という意味が含まれている。今こそ、教えを説くものと教えを聞くものがピタッと合わさる。この「今」という時を逃したら、永久に阿弥陀の本願に出遇えない、そういう「今」が到来しているのだということです。教えも人も、それほど、そうした出遇いは一期一会であるということが「今」という言葉に含まれているのです。

つまり私たちは、永遠に来ない「」という時を生きている。にもかかわらず、「今」を生きているという実感が持てないままならば、恐らく、人生と言っても暇つぶしのままに生涯を終えていかなくてはならなくなります。

 

【私の正体は疑いだ】

さて、「今」を生きることが出来ずに準備ばかりしてしまうのは、どうも私たちの存在と関係しているようです。

もうすでに亡くられましたが、九州大谷短期大学に平野修という先生がいました。平野先生は、「「私」というものの正体は疑いだ」と。疑い・不審の塊が私どもの存在だと言われました。人間というものは、すでに、あらゆるものを疑うように出来ている。そのことが、自分を不安にさせ、準備に駆り立てているというのです。ようは、今が不安だという、その不安の原因は、将来に対する疑いですね。

最近、経済が良くないといいます。みんな、物を買わなくなったから、お金が循環していかない、だから経済がよくならないと多くの人が分かっています。問題は、なぜ、物を買わないのかです。年金問題や介護など、老後の生活に不安を抱えているから、若い人も財布の紐が固くなるのです。つまり、将来に対する疑い・不安が、節約に向かい、老後の準備するのですね。

疑いが生まれ信頼がなくなると、そこに不安が生まれ、自分を護るようになるのです。ただ、そうした疑い・不安が自分に向かう時、仮に、私たちの身に起っていることが事実であったとしても、それを否定するということが起こってまいります。人間は、自分自身の命に疑いを持っていては生きていけない生き物です。

 

【都合の悪い自分を明らかにする写真(まこと)】

例えば、皆さん、旅行なさいますか?日本人が旅先で決まってすることが二つあるそうです。一つはお土産を買うことです。ただ、旅先の地名が入らないとダメなのです。何故か、それはアリバイになるからです(笑)。

そして、もう一つは写真です。旅先で、みんなで集合写真を撮りますでしょう。あの集合写真というものは、案外、厄介な問題を孕んでいるんです。撮ってもらったその時はまだ良いのです。ところが後日、集合写真を手にとると、まず、真っ先に自分の姿を探し当てると、今度は、写っている自分の顔を見て、急に不機嫌になるという経験ないですか?写真を見て「これは自分じゃない」「いつもは、こんな顔じゃない」、仕舞には「写真の撮り方が悪い」と言ってね。しかし、自分と一緒に並んで写っているご近所さんの顔を見ると、厄介なことに、いつもの顔なんですね(笑)。

そもそも、写真というのは「真(まこと)を写す」と書きますね。で、その写真を見た方が「これは間違いなく、あなただ」と言われてしまうと腹が立って仕方がない。でも、こんなはずではないと言っても、結局、「こんなもんだ」と言って不本意ながら受け入れていくわけです(笑)。人間という生き物は、誰が見ても間違いのない事実を示されても否定してしまうところに、人間の弱さがありますし、また、その弱さを受け入れなければ生きていけない。

とにかく、私たちの正体は疑いそのものだと。それで、都合の悪い自分を受け入れることが出来ないようにしてしまっているのです。ところが、仏様の智慧というものは、そうした都合の悪い自分を明らかにしてしまうのです。そのために、写真を疑うように仏様の智慧を疑う。それを親鸞聖人は「仏智を疑う罪は深い」と仰っしゃった。人間というものは素直にお念仏をいただけないようになっていると言うのです。

 

【人生、道半ば終わっても納得できるか】

とにかく、人間は本質的に疑いを抱えているために準備をしていく。しかし、いっこうに不安が消えない。そして、ついに、寿命尽きようとする時、道半ばにして終わろうとする自分に納得して死んでいけるのかどうか、そこが問題なのです。

そういう私たちに親鸞聖人は、たとえ、道半ばで、未完成で終わっていく人生であったとしても、また遠回りをした人生であったとしても、その人生において、本当に出遇わなくてはならないものに出遇うことが出来たならば、自分に納得して生涯を終えていくことができる、と仰っしゃるのです。

 

【出遇わなくてはならないただ一人のひと】

本当に出遇わなくてはならないものについて廣瀬杲という先生は、「生涯を尽くしてでも出遇わなくてはならないただ一人のひとがいる。それは私自身」と言われました。話の中で、よく、仏様に出遇う、仏様の教えに出遇わせていただくということを言われるのですが、それは同時に、仏様に言い当てられた本当の自分自身に出遇わせていただくということなのです。外の方にばかり目を向け準備ばかりしてきたけれども、気が付けば、生まれた時から最も身近な存在であるにも拘らず、出遇ってこなかった「一人のひと」、それは他ならぬ私自身であったということです。

 

【不安を抱えるのは、生きている証拠】

そういう「私」とは、親鸞聖人の言葉で言えば「煩悩具足の凡夫」です。「煩悩とは、身を煩わし心を悩ます」、「具足」とはそれが完全にそろった状態ということです。つまり、生きるということは、自分の思い通りにならないことに悩みながら、不安を抱えながら生きるということです。悩みや不安を持っていることは生きている証拠なのですね。そういう自分と出遇い、本当に引き受けていかなければ、「生きている」という実感も持てないわけです。

そして、不安を抱えるということは、未知なるものに出遇っている証拠でもあるわけです。だからこそ、そこに、驚きもあり感動もあり、出遇いがあるのです。悲しいことや悩ましいことだけではなく、嬉しいこと・驚き・発見・感動…すべて未知なるものに出遇っているからこそ生まれてくる感情です。逆に、未来が完全に想定されているのであるなら、恐らく、そこには感動や驚きは生まれないでしょう。

 

【出遇いは驚き】

宮城先生は「出遇いというものは驚きであり感動です」と言われました。出遇いというのは、こちらから何かを想定して出来るのではなく、私たちの「思い」というものを破って、向うの方から出遇って下っていた、だから、そこに驚きと感動があるのです。驚くというのは想定してないことが起ったということです。そこに、素敵な出会いが生まれ、人の言葉にも感動もするのですね。

そして、本当の私に出遇うということは、言うならば、多くの悩みを抱えながら不安に泣いていた私に出遇うということ。そしてその私が念仏によって、不安や悲しみを「大地」として生きる私に転換されていく。そういう転換された私に遇うということなのでしょう。そして、不安は中々解消しないけれども、不安や悲しみに寄り添い支えてくれる朋友(同朋)が身近にいた、不完全な私であっても良いのだということを発見するのです。

その意味では、「今を生きる」ということは、これまで準備した先の「思い」の中でしか生きてこなかった自分が翻るということでしょう。

 

【弱さはしなやかさ、しなやかさは、したたかさ】

もう少し言えば、「今を生きる」ということは、不安をもつ不完全な「今」の私を、本当に尊いと思える自分に気づかせていただくということに尽きるのかもしれません。そして、不安というものは、言ってみるならば弱さですね。しかし、その弱さは、必ずしも人間の弱さではありません。人間の生き方においては「しなやかさ」なのです。

詩人の星野富弘さんの詩をご紹介します。

 

「ちいさいから

踏まれるのさ

弱いから折れないのさ

 たおれても

  その時 もし

   ひまだったら

しばらく 空をながめ

また 起きあがるのさ」(星野富弘著

『風の詩』「母子草」)

 

 星野富弘さんは体育教師だった若い時に首を痛めて、それ以来、車いすの生活をされている方です。

 星野さんの言葉をお借りすれば、「弱さ」は、しなやかな竹のように、曲がることがあってもポキッと折れない。そして時間が経てば、また起きあがっていく。私どもの「弱さ」というのは、人間の生き方からすれば「しなやかさ」。であり、「したたかさ」でもあるのです。

そういう自分の弱さは弱さのままに助かっていく世界というものを教え、

そして「今を生きる、あなたになれ」というメッセージを発して下さったのが親鸞聖人なのです。

(了・文責は当院)