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真宗大谷派 浄影寺


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                 法 話

 

「生死勤苦の本を抜かん」

   浄影寺・釋弘道

 

当院の衆徒・釋弘道が、8月7日、東北別院主催の暁天講座で法話をいたしました。当日の抄録を掲載いたします。

 

他者と通じる世界

地獄・餓鬼・畜生のない世界を求めて

 

【根本願・本有の願】

「生死勤苦の本(もと)を抜かん」という講題は、『大無量寿経』にある言葉です。つまり、阿弥陀仏が仏になる前身・法蔵という国王であった時に、世自在王仏に出遇い、大変感銘を受け、王位を捨てて一人の修行僧となった。そして、「嘆仏偈」をもって仏を讚嘆し、その後、四十八願(本願)を建てられた、と。その本願の直前に誓われた阿弥陀の思い・志がこの言葉です。

なぜ、本願を建てて、仏にならんとするのか、それは、「衆生の生死」という苦しみの本を抜くためであると。そこには、仏の願いと言っても、単なる理想として語られているのではない。目の前に、苦悩する人の現実の姿がある。これから建国しようとする浄土という世界は、夢物語の世界ではないのだ。その世界がどれほど、素晴らしい世界であっても、そこに生きている人間の苦悩がある限り、浄土という世界は成り立たない。そして、現実に起こっている苦悩に対して、その状態を改善するというよりも、苦悩の原因・本を抜く、という。言ってみれば、対処療法ではなくて、根本治癒です。それが、浄土を建国しようとする阿弥陀仏の志なのでしょう。

さて、阿弥陀の本願が四十八願と言われるのは、康僧鎧(こうそうがい)という方が翻訳された『大無量寿経』に説かれているからです。しかし、「生死勤苦の本を抜く」というのですから、文字通り、苦悩の本は一つ。従って、本願もまた一つの根本的な願いから始まったのでしょう。一つの根本の願いが四十八種の用きを持ったということです。それで、本願を「根本願」ともいうのです。そしてもう一つ、「本有の願」という意味があります。すなわち、本有という、人間の存在の深いところに本来的にある願い、この身を存在せしめている願いを呼び起こすという意味がある。こうした根本願・本有の願を呼び起こして、私たちに浄土という国土を与えようとしている。そこに、私たちが生きている、この現実の社会を強く意識されているのです。

 

【「憲法改正」論議から】

昨今、「憲法改正」論議が盛んになってきました。私は、改正ではなく改悪を目指しているとしか思えないのです。憲法は、もともと国家権力を縛り、国民の自由を保証するために制定されたもの。これを「立憲主義」と言います。つまり、憲法を守る義務は国民にあるのではなく、首相をはじめ、大臣・議員・公務員などに、憲法遵守と擁護の義務が課せられている。しかし、憲法を遵守しなくてはならない為政者から憲法改正の声が上がり、天皇を国家元首とし、第九条を変えて、自衛隊を国防軍にし、軍法会議を設置、また、個人よりも「公」を優先して国民の自由を制限する等、憲法第九十九条に照らすと、憲法違反の声が出てもおかしくない。いわゆる、憲法改正して、どのような国にしていこうとしているのか。自民党が出された憲法改正の草案を読むと、国や社会のイメージが浮かぶようです。憲法を読むと、その国が何を大切にし、どのような国を目指しているのか、そのことが見えてきます。

 

【第一願「無三悪趣の願」】

では、浄土建国の基になる本願についてはどうか。かつて、曽我量深先生は、本願を「浄土の憲法」だと言われました。まさしく、本願という憲法によって、浄土の性格が表されているのでしょう。そして、実際の国では「国民」でしょうが、平野修先生は「浄土の住人」と仰いましたが、浄土に生きる住人、すなわち、念仏往生人の姿が、この本願から伺われます。特に、四十八願の第一願「無三悪趣の願」が、浄土の住人を、よく示していると思います。

 

《無三悪趣の願》

「設我得仏、国有地獄餓  鬼畜生者、不取正覚」

(たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ)

 

もともと、この地獄・餓鬼・畜生は、六道という、人間の迷いの在り方を六通りに示されたうちの三つが地獄・餓鬼・畜生です。本願の第一願では。地獄・餓鬼・畜生のない世界を作りたい、ということです。では、この地獄・餓鬼・畜生のない世界に先立って、そもそも、「地獄・餓鬼・畜生」という言葉で言い当てられている私たちの世界、つまり、この社会がどのようなものなのか見ていく必要があります。言ってみれば、私たちの現実感覚として語られているのが、「無三悪趣の願」の中身だからです。

  等活地獄=地獄絵図

まず、「無三悪趣」の「悪」という字は、いわゆる、「悪」というより「嫌悪」という意味。人間として生きていく上で嫌悪すべき事柄、人間の尊厳性を傷つけ奪っていくようなものを嫌悪する、ということです。そもそも、人間という言葉の「間」という字は「間柄」、人と人との関係性を意味します。人と人との間柄を生きるものが人間なのです。しかし、その「間」を失い、常に、人と人とが背きあい争っている。そのような嫌悪すべき在り方が「悪」ということの意味です。

宮城先生は、「人間は《間》を自己として生きるものだ」と言われました。人と人との「関」の中に、ちゃんと自分の居場所があって、初めて、自分の存在が意識される。つまり、他者との関係において自己があるのですね。

 

【ほうれんそう】

かつて、宮城先生からこのようなお話を聞きました。

あるご高齢の方が「歳を取ると、ほうれんそうが欲しくなる。しかし、歳を取ると、ほうれんそうが少なくなる」と仰しゃったと言うのです。「ほうれんそう」というのは、野菜じゃないですよ(笑)。「報・連・相」です。つまり、「報告・連絡・相談」が少なくなるということですね。

例えば、歳老いて、仕事の第一線から外れ、若い世代に世帯を任せるようになると、気楽な面があって良いわけです。ところが、若い人が何だか騒がしく動いていると。しかし、何の報告も連絡もないので訊ねると、「心配しなくてもいい」という返事が帰ってくる。そして段々、家庭のことが分らんようになったと。こうなると、居心地が悪くなるし、疎外感も出てきます。ひょっとすると、生き甲斐すらもなくなってしまう。相談までいかなくても、せめて、報告・連絡があったら、家族のために生きているという実感も出てくるのでしょう。

宮城先生は、「人間は報連相を欲しがる存在。報連相がなくなれば所在がなくなってしまうのだ」と仰っていますが、まさに、報連相という「間」を生きる存在が人間なのです。

 

【悪趣=猶予がない状況】

そして、「趣」という字は「走る+取る」で成り立ち、「早く赴く」という意味があります。転じて、猶予がないということです。

つまり、「悪趣」とは、「間」を自己とする存在である人間が、人間の欲望が剥き出しになるような状況で、人に対する不信感が生まれる。人間性がズタズタに切り裂かれ、人間が人間であることを失っていくような、そうした一刻の猶予がない状況の中で生きている。その在り方が「悪趣」です。  

この「三悪趣」について平野修先生は、「無人の荒野」と仰いました。大勢の人間に囲まれて生きていながら、そこに誰一人として信じられる人がいない状態。人を全く信頼できなくなってしまった状態を「無人の荒野」と言われました。一つ間違えば、いつでも信頼性が壊れていくような、そうした、脆い関わりの中で、私たちは生きています。

 

【罪業に拘わる地獄】

では、地獄・餓鬼・畜生は、何を教えているのか。

地獄は、「梵語でnaraka(奈落)。罪業によって生じる極苦の世界」という意味。つまり、罪業、その罪に対する恐怖・償いという、私たちが日常生活で、実感していく状況の中にあります。

地獄について、『諸経要集』には「獄は其の局なり。局は拘局(こうきょく)という。自在を得ず」と。要するに、存在が縛り付けられた状態、一つの在り方に拘束され、本来の在り方ができない状態を言います。

例えば、『観無量寿経』や『涅槃経』でアジャセの問題が取り上げられています。王舍城という国のもとに生まれたアジャセが、釈尊の弟子で従兄弟のダイバダッタにそそのかされ、クーデターを起こす。父のビンバシャラ王を殺し、母親のイダイケ夫人を殺そうとしたが、大臣に諫められ、母親殺害を思いとどまった。しばらくすると、自分の行った業・罪の重さから、地獄に堕ちるのではないかと非常に恐怖し、苦しむのです。犯した罪は、取り返しが効かないわけですから、罪ほろぼしのために善根を積んだとしても、事実が消えるわけではないので、生涯、その罪に縛られ、苛まれていくしかない。ここに一種の絶望がある。そうした、業・罪に縛られ、恐れを抱きながら生きていかなくてはならない状況が地獄です。

 

【等括地獄=想地獄】

源信僧都の『往生要集』には、地獄が説かれています。大きく八大熱地獄と八大寒地獄が説かれ、その第一番目が「等活地獄」です。

等活地獄というのは、地獄に堕ちると、その地獄の住人を、獄卒が刀や鉄の棒で、頭のてっぺんから足の先まで、切り刻み、すり潰していく。そして清涼な風が吹くと、また活き返り、再び切り刻まれ、すり潰され、また風が吹くと活き返り、それを繰り返し終わりがない。ここに、死をもってしても苦しみが終わらないということで、人間には償えない罪があるのだ、ということを教える。

また阿含経典では、この等活地獄を「想地獄」という言葉で抑えられています。私たちは、自分の経験や体験してきたことを善しとして、自分の物差し・レッテルを貼って、物事を受け止めてしまうことが強いですね。つまり、事実を事実として見ずに、何かそこに自分の想いを重ねて見てしまう。相手が辛い体験した話を聞いても、自分の体験に合わせて理解しようとする。

しかし、私たちが体験したことと、その方が体験したこととは、状況が全く異なるということもあるのです。「要するに」という言葉を言いがちでしょう。事実を事実として、ありのまま受け止めることが中々できないのが私たちです。

 

【ヘイトスピーチ】

ここ一年ほど前から、「ヘイトスピーチ」という、日の丸を手に、憎悪の念を剥き出しにした言葉を叫びながら、在日朝鮮人・韓国人が住む地域をデモする若い人の姿が出てきました。ヘイトスピーチとは「憎悪表現」という意味で、ある特定の人種や属性に対して、暴力、差別中傷、差別煽動する行為のこと。国際的には「人種差別撤廃条約」によって禁止されている行為ですが、日本では取り締まる法律はないのが現状です。

  憎悪の言葉を叫ぶ若者ら

最近のヘイトスピーチは、北朝鮮問題や領土問題という国際情勢が背景にあるようですが、そこに乗じて、ナショナリズムを煽り、朝鮮学校の子供たちにまで被害が及ぶ状況は、かつて、関東大震災の時に、デマや煽動が起因とした朝鮮人虐殺事件を思い起こします。

こうした差別や中傷という問題は、偏見・レッテルによって、自らが抱えている憤懣の吐き出しに利用されることが多いのです。差別煽動をする者は、恐らく、日常生活の中で、在日朝鮮人・韓国人に出会うことがないのでしょう。「想」という作られたイメージがある限り、人はナマ身の人とは出会うことができない。こうした差別問題は、差別をされている人が人間性を奪われていくだけではありません。差別者が、差別することによって、自らの人間性をも失っていく、言わば、互いの人間性を傷つけていく問題なのです。

 

【孤独にして同伴なし】

それから、『往生要集』に、「我、今帰する所なく、孤独にして同伴なし」と地獄のもう一面を教えています。

長いこと多くの人に囲まれて生きてきたが、気がついてみれば、わが人生において、喜びをともにし、悲しみを分かち合いながら人生を共に生きる、言わば、本当の意味で、同伴と呼べる人は一人もいなかった。孤独であった、と。同伴者がいないということの問題は、人と人との「間」が失われ、同じ空間にいながら、それぞれが、それぞれを生きている、通じていかない問題を抱えているのです。

 

【餓鬼の問題=貪欲さ】

餓鬼は、欲しい物を求めても、いつも満たされていない、人間の貪欲さの問題です。これは物だけではない。人様から何かいただいて、最初こそ、御礼の言葉も出ましょう。しかし、そこに、当前だという心が生じてくると、欲求が強くなってくるようになります。毎年、いただく御歳暮や御中元にも、不満を持ったり、欲求が出ていませんか?(笑)こうなると、元々の意味が何処に行ってしまって、その品物にばかり目が奪われてしまう。

また、餓鬼は食の問題でもあります。そこには、「食べているだけで、生きると言えるのか」という問題があります。食べ物を求め、欲しい物を求める、それだけが、あなたにとって生きることなのか、という切実な問題を提起しているのが餓鬼です。

 

【畜生=それぞれ】

畜生は、人間は、それぞれの立場でしか見えないということ。曽我量深先生は、「善人ばかりの家には争いが絶えず、悪人ばかりの家には、争いが消える」と言われました。善人の家庭は、それぞれ、自分が善人だと思っているから、互いに、自分の正しさを主張しあう。だから、どうしても喧嘩が絶えないのです。悪人の家庭には、それぞれ、自分が悪いと思っているので、お互いに「すまなかった」という言葉も出てきましょう。そこに、親子、夫婦であっても、家庭の中でも外でも、人としての謙虚さがあるならば、人と人は交流しあうことができるのです。これは、経典に向き合う姿勢にも通じるのですね。

地獄・餓鬼・畜生という三悪趣に共通することは、同じ場所にいても、他者と通じ合えない、人と人との「間」が失われているという問題なのです。しかも、他者と通じさせない壁になっていたのは、実は、この「私」であった。この認識から本願が始まっています。

地獄・餓鬼・畜生の問題が、本願の最初にあるのは、単純に順番としてあるのではない。寧ろ、本願全体にかかっていく問題として置かれたのだと思います。つまり、浄土がどれほど素晴らしいところであったとしても、浄土に往生する人が、他者と通じない状態であるならば、そこは娑婆と全く同じことになり、浄土は言えないのでしょう。

 

【如来の家に生まれる】

「衆生と共に往生せん」という言葉が善導大師にあるように、「共に」という一点で、人は人になっていく。それは、人は、人との「間」において、人間であることを回復していくものなのでしょう。『教行信証』に「如来の家」という言葉がありますが、まさしく、念仏申すものは「如来の家」に生まれ、「浄土の住人」となり、お互いに、人生の同伴者となって生きるのだ。ここに、御同朋・御同行の世界が開かれていくのでありましょうし、本願の第一願で願われていることではないかと思います。(了・文責は当院)