法 話
|
春の法要法話抄録「震災後を生きる」 郡山市・道因寺住職 石田宏壽氏 期日 2012年5月13日 |
5月13日、郡山市・道因寺住職の石田宏壽氏をお招きし、東日本大震災をどのように受け止め、そして、これから、どのように生きればよいのかについて、法話をいただきました。 動乱・混乱の世は、時代の分岐点 安全から安心、安心から安穏に ◇『方丈記』〜歴史に学ぶ 大震災から1年2ヵ月ほど過ぎました。私の本堂は、震災で壁が全部落ち、廊下のガラスが全部割れて半壊でした。本堂の片付け作業をしていた時、鴨長明が書いた『方丈記』の中に地震の記録があったことを思い出しました。そこに、1000年以上前に京都で起きた地震記録が克明に書いてある。 「地震があって、山が崩れ川を埋めて、海は傾いて、津波が起こって、土が裂けて水が湧き出て、谷は崩れ、舟は波に漂い、道行くは戸惑う。都の辺には、もう、建物がいっぱいあって、お墓も皆んな一つとしてなして、みな、全て崩れた。そして問うた。もう、町中に死人が立ち上って、煙のごとくであると。恐ろしい。これが地震なり」「余震が三ヵ月、そのあと、ようやく治まるのに、六ヵ月、九ヵ月かかる。翌年は、冷害。翌々年は飢饉」。余震は三ヵ月続くんだと思った途端にストンと力が抜けました。 ここで大事なことの一つは、地震や津波については、歴史に学んでいくということです。東北大学の地質学の先生が、岩手県の津波に襲われた場所で土を掘ってみたら、津波で襲われた時の地層が出てきた、と。海に近い高台には遺跡があるんですね。やはり、今回の地震で、津波がそこまで来ていたらしい。しかし、人間というのは、最初は高台に住んでいるけれど、段々、下の方にいくんですね。 ◇安全と安心は違う もう一つは、放射線量が高い。私が住む郡山市役所に放射線測定器があって、0.58μSVです。福島市はもっと高い。近所に保育園がありますが、子どもたちは、まだ外では遊べません。これが現状。一方、郡山市内の小学校・中学校では、グラウンドの土を全部削りましたので、測ると0.1μSVほどですから、市内の中で一番安全なのは学校です。だから、若いお母さんたちは、「いつまでも学校にいたほうがいい、戻ってこないで」という感じです。ここで学んだことは、どんなに安全だと説明されても、安心には代えられない。住んでいる人たちは、行政を誰も信じないんですから。安全と安心は違うんです。 ◇大きなツケ〜放射能〜 それからもう一つ、反省として、これまで原発や放射能に対する学びが少なかった。知識もないし、現実の中で、どうやっていいか分からなくてオロオロした。だから、大事なことは、原発や放射能について学ぶと同時に、やはり、自然の中でコントロール出来るようなものを中心としてやっていく。原発は、放射能を抑えるだけの科学的な技術を持つまでは、しばし猶予をいただく。コントロールできないんですから。 私の寺では、本堂の仏華が弱ってくると、庭の後ろに四角い堆肥作りの場所を作って、花を刻んで、バクテリアを入れます。すると、一年間くらいで土になります。その土を境内で使うと、木がみるみると育つ。ところが、去年作った堆肥の放射線量が一番高いんです。だから、堆肥を丸ごと袋の中へ入れて置かなくてはならない。つまり、(自然の)サイクルがズレてしまった。我々の生き方もサイクルが変わった。これが、大きなツケですね。 ◇歴史・安穏・循環 大震災や原発の問題から学ぶことは、まず、歴史に学んで、先人が越えてきたものを、我々も大事に受け止めて聞いていこうという姿勢です。二つ目は、安全と安心は違うということ。我々が願っていることは、安全の次に安心、安心の次に、仏教で言えば、安穏(あんのん)がある。穏やかであって欲しい。穏やかということは、みんなと一緒に生きていくということです。三つ目は、自然に逆らってはならない。循環で成り立っているものを崩してはならないということです。 私は、以前、草花が消えていくことに非常に危険を感じるという話を聞いて、何故なのかと思った時期があります。ある先生が曰く、「植物の中に、何かしら人間の病気に効くものがあったはず。ところが、草花が消えることは、病気を治す植物がなくなって、その代わり、科学的な薬が出てきた」ということです。昔は、熊の胆だの、ドクダミだとか、煎じていたじゃないですか。そういうものが、無くなってきている。その代わりに、薬が出て、副作用も出てきてしまった。仏さんの教えの大事なことの一つは、命は循環の中にあるんだということですね。 ◇時代の分岐点 『方丈記』が作られた1185年は、親鸞聖人が12歳。この年に大震災に遭っています。また、下関の壇ノ浦で、源義経の一団が平氏一門を海の中に沈めて、勝利を収めた年です。しかも、平氏一門が滅びたということは貴族社会が終わって新しい武家社会が始まったということ。これを去年に置き換えると、大地震、津波、放射能、風評被害。そして、政治や社会が混乱している状況です。これは、我々は気がつかないけれども、大地震から1年2ヵ月の間に、日本の国が次の時代を作っていくようなところに、我々は足を乗っけているんでないか。つまり、古い体質のものと新しいものが、両足となって一歩踏み出そうとしている年でないかと思います。動乱や混乱の世の中というのは、今までのいろんなものを否定して、新しいものが生み出される分岐点なんだということです。 親鸞聖人は、九歳の時に出家し、比叡山に登って以来、大動乱に巻き込まれる中で、穏やかなところが欲しいと願いました。庶民が苦しんでいる姿を、聖人はずっと背中に背負って、歩いてこられたんです。 ◇人として生まれる そして、法然上人のもとで、親鸞聖人と一緒に勉強していた方が著した書物に『唯信鈔』があります。その書物を弟子に勧められています。この書物の中に、「人間」という文字があって、そこに「ひととしてうまれる」という送り仮名をつけています。つまり、人として生まれるということが人間なんだ。だから、今、我々は地震や津波や放射能などで時代に翻弄されているけれども、そういう中で親鸞聖人が課題にしたのは、「人として生まれる」ということ。人間は、新しい命に目覚めるということが願われているということです。 今日は「春の法要」です。春という字の意味は、日に当たって芽が出るということです。そして、芽が出るとき、もう一つ大事なのは土です。この土という字を工夫すると「生まれる」という字になります。つまり、春というのは生まれるということと一緒なんでしょう。だから、「ひととしてうまれる」ということは、春、植物が芽を出すのと同じなんです。だから、安全から安心へ、安心から安穏へ、穏やかであって欲しいと、みんな、願っている。穏やかということには、やはり、循環の中で、我々にいただいているものがあります。それは、育ててくれているものに気づくということです。植物の例でいうと、育てているものの三要素、まず水、お日様、そして、土です。この三つを書くと涅槃の「涅」という字になる。 しかし、この循環の中に、手を突っ込む人が出てくる。放射能がそうなんだ(笑)。手を突っ込むから、循環が崩れちゃう。「涅」のサンズイを手偏に換えると、捏造の「捏」という字になっちゃう(笑)。だから、我々は、この捏造されているようなものを、きちっと見るような眼、そして一番、身近なところで、育てられているようなものを頂いていく、そういうものを受け止めていく受け止め方、これが「ひととしてうまれる」ということです。眼を持つということは、今まで見えなかったものが本当に見えるようになった。つまり、放射能の勉強をあまりしていなかったなあということが見えてきたし、そして、こんな仕組みだったのか、という疑問が生まれてきたんです。 ◇隣の人とは親戚〜無量 皆さんにお伺いします。3代前の親は何人ですか?3代目は8人いるでしょ。8人の方のお名前、全部言えますか?(笑)3代前の親が分からないということは、貴方も3代過ぎたら、忘れられる。こういうものが命なんだ。しかし、忘れられるというのではない。伝えられているという事柄が大事なんです。自分がまずお参りする。勇気をもって一歩踏み出す。そういうことがあれば繋がりが見えてくるんですよ。 20代前は親が百万超えています。25代前は3200万。これでも戦国時代まで。仮に、親が1億までいると仮定して考えたならば、隣の人と違うと思っていたけど、隣の人は、もう親戚だ。単位としては、もう、量れないんですから。そうか、命は繋がっていて、分からなくなるんだ。それに気づいたのが、「帰命無量」です。これを記号で書けば「∞」(無限大)です。それをあえて、数字に表せば「∞=1」です。だから、生まれたときに、我々は数え年で1を貰っているんです。分からないけど、影のところで背負ってきた1があるんだ。これが、∞(無限大)の「1」。それは「無量」なんですね。だから、いつでもどこでも、光り輝くことが無量光であり、命は無量寿というわけです。この言葉をインドでは「阿弥陀」という。そうか、なるほど解ったというのが「南無」です。それを繋げると「なまんまんだぶつ」(南無阿弥陀仏)。私が無限の命を頂いて、多くの人に支えられて、今、生きているということ、これが初めて分かったというのが、人として生きるということです。つまり、そこから、新しい課題が生まれてくる。今まで気づかなかったのが、気がついていく。我々は今、多くの人に支えられているが、それを、全部自分の手柄だと思っているところに問題があるんです。 ◇穏やかに生きたい〜本願 『涅槃経』の中に、「一人一人の人間の奥深いところに仏さんになる種がある、それを仏性という」と。今度、お寺に来たら大変ですよ、隣の人、仏さんだから(笑)。ところが、親鸞聖人や法然上人は、全ての人に仏性という仏さんになる種があるのに、なぜ、こんなに悩み苦しんで、時代や社会に翻弄されていくんだと。これが疑問の入口でした。なんで、うちの方に放射能が降るんだと。できれば、郡山の方に来ないで山の方に行って、と。こういう考えがフッと出るんです。自分のことさえ良ければというのが出てくるんですね。 しかし、本当は、みんな、命の根底に穏やかに暮らしたいということを持っているんです。人間はみんな、仏性を通して願いを持っています。でも、お仏壇の前に座って線香を点けて、酷い人になると、チャチャーンって、宝くじが当たりますようにって(笑)。ところが、そういうレベルと違って、全ての人の命の一番深いところで、仏性という種があって、安穏、穏やかにという願いがあって、よく生き、命を大事にしていただく、そこに、根本の願いある。それを本願と言うんです。仏さんは、我々の命と離れず、それが限りなく続いてきた。無量ということをもっている仏さんなので、阿弥陀さんという。だから、真宗のお寺は、阿弥陀さんを中心とするんです。 蓮の実は、条件が整えば次の年、芽が出る。条件が整わなければ翌々年、咲く。さらに、水もなければ酸素もなく、日照りであるというと、3年後に巡ってくる。親鸞聖人は「凡夫」という表現をしましたが、今の言葉に置き換えるなら、生活者がお念仏をして立ち上がって、勇気を持って歩んで行く。そして、課題を背負いながら、気がつく世界を歩んで行くのだと思っております。その芽が出るのが春の時期。それで、「春の法要」の大切な営みがあるんです。(文責は浄影寺) |