法 話
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大地に生きる〜大震災を受けて〜 浄影寺衆徒 信楽弘道 期日 2011年10月16日〜22日 |
昨年3月11日に発生した東日本大震災による大津波の爪痕が残る仙台教区気仙組(陸前高田市・大船渡市)。気仙組の各寺院では、「このような大きな災害の中だからこそ、親鸞聖人の話を聞くことを大事にしたい」と、震災から2ヵ月後には毎月の定例布教を再開された。ご要請を受け、昨年10月16日から22日にかけて7ヵ寺に出向し、震災被害の厳しい現実の中で、親鸞聖人の教えと向き合った一週間となった。 人間は大地と共にある存在 誰かのために生きることが喜びとなる〜浄土〜 ◇生きること全体が問われた-東日本大震災- 冒頭、このたびの大震災によって犠牲となられた方々に衷心よりお悔やみを申し上げますと共に、被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。 さる(2011年)3月11日の午後2時46分、東北太平洋沖を震源とするマグニチュード9の大地震が起り、これによって巨大な津波が発生して東北の海岸地域を飲み込み、死者・行方不明者を合わせて約2万人の方が犠牲となりました。加えて、東京電力福島第一原発が爆発したことによる放射能汚染が拡大し、いまだ、収束していない状況です。このような、未曾有の自然災害・人災を受けて、恐らく、多くの人々の意識の中に、物理的だけではない少なからぬ影響を与え、これまでの生き方や価値観に対して大きく変更を迫るような経験をしました。 こうして、震災から時間が経っていきますと、辛いことでしょうけれども、大震災そのものと向き合い、受け止め直していかなくてはならないのではないか。改めて、この大震災は、一体、私たちの何を奪ってしまったのか。そして、もし、震災が気づかせてくれたことがあるとするならば、それは何なのか。震災によって、私という人間がこれまで生きてきたこと、そのこと全体が問われているのではないかと感じています。 震災後、津波被害があった場に参りますと、目にした光景は、陸前高田市や大船渡市と同じように、家や車など日常の生活がいっぱい詰まった物が瓦礫と化して、あちらこちらに山積みとなっていました。このような悲惨な状況を前に多くの方が「言葉を失った」と仰しゃっていますが、私も言葉を失った一人でした。それは、これまで曲がりなりにも親鸞聖人の教えに触れ、お寺などで何がしかの言葉を発してきたのですが、この惨状を前にして、私の言葉にどれほどの力があったのかと問わずにおれませんでした。少なくとも、激動する鎌倉時代の中にあって生きた親鸞聖人の言葉は、苦難に満ちた人生を歩む人々に勇気を与え、生きる力を与えてきたはずであります。しかし、その親鸞聖人の言葉が「私」というフィルターを通して発せられた時、全くと良いほど、生きる力を与えないものとなってしまっていたのではないかと、震災直後、自問自答することが多く、聖人の言葉を発することを控えていたのです。 ◇人間-言葉に生きるもの- しかし、日常生活を顧みれば、人間というものは言葉によって苦しみ、言葉によって悦び、言葉によって生きる力を与えられる、つまり、言葉によって生きているのが人間であるということを今更ながらに感じるようになりました。それは時として、本当の意味で血の通った、ただ一つの言葉がその人の人生を大きく変えていく、実は、人生を大きく変更していくような言葉を人間は本質的に求めているのではないかと思うのです。 とするならば、震災で言葉を失うほどの出来事に遭い、生きていることが根底から問われているからこそ、その厳しい現実の真っ只中で、親鸞聖人の言葉を求め、言葉と向きあい、生き直していく、そういう生き方が、私ども真宗門徒に求められているのだと気がつかせていただきました。 ◇国土とは大地性 さて、このたびの震災による大津波によって、多くの方が大切な家族を失い、また、原発事故による放射能汚染によって、生活の基盤が奪われてしまいました。それは、津波と放射能という被害状況の差があるとしましても、震災そのものが齎したことを一言で申し上げるならば、「国土」を失ったということだと思います。国土とは、単に場所を表すのではありません。それは、過去から現在、現在から未来へ引き継いできた生活者の営みであり、そして様々な関わりの中で、限りなく人間を産み・育んできたものです。宮城先生は「国土には大地性がある」と仰いました。すなわち大地の働き、国土の中にいのちを生み出す働きがある。それゆえに、国土には「いのち」の感動があるのだと教えて下さいました。 つまり、国土の本質は大地ですね。人間は大地から生まれ、大地に立って生き、寿命尽きれば大地に帰っていく。人間の存在そのものが、常に大地と共にある、そのような「いのち」を根底から成り立たしめている働きが大地にはあるのです。そして、私どもの生活、すなわち、個人的に体験した苦しみや悲しみが誰かに伝えられた時、その体験は単なる個人に留まらず、人間の苦しみ・人間の体験として大地に記憶されていく、そこに生きた歴史がある。そのような歴史的な働きが大地というものにあると思うのです。 それだけではございません。親鸞聖人の著述『教行信証』に、仏様のお心・悲願を説明する箇所に「悲願は…なお、大地のごとし、三世十方一切如来出生するがゆえに」とあります。三世とは過去・現在・未来のこと。十方とはあらゆる方角を意味します。つまり、悲願とは大地のようなものだと。なぜそう言われるかといえば、時間的にも空間的にも無数の如来を生み出し続けるからである、と言うのです。仏様が生み出される背景には、勿論、人間が生きる上での苦悩というものがあるわけですので、人間の苦悩と共に、無数の如来を生み出してきた、そのような働きをもっているのが大地ということです。もう少し申し上げるならば、大地は、如来・人間にしても、過去や現在の存在を生み出すのだけではない、未だ生まれない如来や人間をも、この大地の中に宿しているのだ、つまり、未来をも宿し、その未来を生み出すのが大地だということです。 ところが、私たちは震災によって、そのような国土を失ってしまった。それは、過去から現在に続く生活の場を失っただけではなくて、未来をも失ったことを意味するのです。そこに、大災害が齎した厳しさと悲しさがあるように思います。 ◇「大地」は失われない 先日、ある方の講演をお聞きしました。その中で印象に残りましたのが「希望の反対は絶望だというけれども違う。希望を失うだけでは人間は絶望しない。絶望とは全てを失うことだ。未来が奪われることによって、人間は絶望するのだ」という言葉でした。この「全てを失うこと」の「全て」の中には過去や現在だけではなく、これから生きていこうとする未来まで含み、それが根底から奪われてしまうことによって、人間は絶望するのだと言うのです。「全て」という言葉を換言すれば、国土ということになるのでしょう。しかし、先ほど申し上げたように「国土」とは、単に場所というのではなくて、未来も含め、限りなく人間や如来を生み出し続けていく働き、すなわち「大地性」である。とするならば、実は、震災によって、場所としての国土を失ったとしても、働きとしての大地そのものは、決して、失われていないのではないかと思うのです。 もう少し申し上げるならば、震災によって全てを失い、そこに絶望としか言えないような状況があったとしても、「大地性」がある限り、決して、未来が失われたのではないのではないか。状況として、未来が失われたように見えるけれども、それは、未来に繋がっていくような「道筋」を見失われたということなのではないかと思うのです。そもそも、未来とは「未だ来らず」、まだ来ていないという意味ですので、現在のあり方によってどのようにも変わるのが未来なのです。 そして、私たちは、今、現に、「いのち」あって、ここに生きている、その厳然たる存在の事実に、実は、大地があるのではないかと思うのです。仏様の教えによって、そこのことに気づかせていただく。つまり、ここに生きている、この「いのち」そのものの中に人間を回復させていくような「大地」があり、また、見失った道筋が開かれているのではないかと思うのです。 ◇浄土に生きよ その意味では、人間は、本来、大地に生きる存在なのだ。そこに気づかせていただくことが出来るならば、「全て」を失った人間が、再び、人間として立ち上がっていくことができるのではないか。そのことを一番、願っておれるのが、災害で亡くなられた方々ではないかと思うのです。このような大地を、親鸞聖人は如来の大地、すなわち「浄土」という言葉で教え、「浄土という大地を生きよ」「浄土に生きよ」と励まして下さっているような気がしてなりません。 ご当地へ向かう途中、陸前高田市で、今回の大津波に耐えて唯一残った「奇跡の一本松」が目に留まりました。あの一本松に皆さんは何を見ておいでなるのでしょうか…。樹木というのは、いのちを最もよく象徴していると思います。樹木は大地から生み出され、生み出された樹木は大地にしっかり立って離れないように、大地から生み出された人間はその大地を立脚地として、そこから離れない。その生まれた命それぞれがこの大地で繋がりながら生き、やがて、大地から生み出された人間が、その身を大地として次のいのちを育んでいく。ここに親鸞聖人が教えて下さる「浄土に生きよ」という世界があると思います。 誤解を恐れずに言えば、「浄土に生きよ」という言葉の意味は、自分のために生きよということではないのです。ややもすると、人間は自分のために生きるということが、度が過ぎますと、自分のことだけしか見えなくなって他人を押しのけ、ついには、自分の殻を作って孤立して生きていくしかありません。この殻のことを頑固と言うんです。浄土というのは、自分の殻を作る世界ではありません。むしろ、頑固さが破られて、広い世界があることを気づかせて下さるのです。 「浄土に生きよ」とは「浄土の菩薩となれ」ということです。浄土の菩薩と言っても、きらびやかな衣を纏った菩薩などではありません。「浄土の菩薩」とは他者のために生き、他者の喜びや悲しみを自分の喜び悲しみとする存在です。つまり、他者のために生きることを喜びとするのが浄土の菩薩です。とすると、「浄土に生きよ」とは、他者のために生きよ、誰かのために生きよ、そして未来のために生きよと仰っしゃる世界です。しかし、他者のために生きることが、決して、自分を犠牲にするということではありません。 例えば、若いお母さんが小さなお子さんに食事を与えているとします。美味しそうに食べる子どもの顔を見たお母さんは、そこに、ご自分が食事をして喜びを感じる以上に、恐らく、喜びを感じ、ささやかな幸せを感じるわけでしょう。他者の喜ぶ姿を見て、自分も喜びに満ちていく、そのような世界が浄土なのです。 もう少し申し上げるならば、「誰かのために生きよ」という「誰か」とは、縦の繋がりで言えば、「未来に生きる子どもたち」ということでしょう。子どもたちの幸せを願い、子どもたちの喜びを自らの喜びとし、子どもたちに未来を託していく。そして、横の繋がりで言えば、「友」ということでしょう。苦しいことや辛いこと、悲しいことに向きあいながら、そこに寄り添ってくれる友。その友こそ、浄土の菩薩の姿であり、親鸞聖人が教えて下さる「御同朋」(友だち)と言うことではないかと思います。 繰り返しになりますが、私たちの存在は大地と共にある。言ってみれば、一人一人が大地であり、大地となって生きている。そして、大地として生きている一人一人が、お互いの幸せを願って止まない、ここに、浄土に生きる人の姿があり、希望の光が見えるような気がするのです。(弘) (文責・浄影寺) |