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真宗大谷派 浄影寺


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                 法 話

 

感覚を呼び覚まそう主体的に生きるとは‐@

浄影寺「春の法要」法話

           会津若松市・正蓮寺住職 武藤淳一 師

期日 2009510日(

 

 2009年5月10日に勤修された当山「春の法要」では、武藤淳一師にご出向いただき、「感覚を呼び覚まそう―主体的に生きるとは―」と題してご法話をいただきました。2回に分けて抄録を掲載いたします。

 

人間になるべく生まれた

―家庭は感覚を育てる「場」―

 

☆【人間になる可能性を持って生まれた―誕生―】

私たちは、どういう感覚を身に付けさせていただき、どういう感覚を育てていただいたのか。このことは私たちが人間として生きていく上で非常に重要な意味を持っています。私たちは生まれたばかりの赤ちゃんを見て、これは人だろうか、猿だろうか、犬だろうかと考える人はまずいないと思います。頭から人間であると決めてかかっているわけですが、その出発点にちょっとした錯覚があると思います。それは、生まれたときを「誕生」という言葉で表現しますが、これを漢和辞典で調べてみますと、生まれてお目出度いと書いてあるのかと思いましたら、誕という字には「出鱈目。嘘、偽り、物事を大袈裟にいうこと」最後の方に「生まれる」という意味も出てきますが驚きました。漢字というのは非常に的確に物事を表現する素晴らしい言葉で、そこには重大な意味が表されています。

では、なぜ誕という字が「出鱈目」とされているのか。変に思われるかもしれませんが、一つは、生まれたばかりの赤ちゃんはまだ人間ではないということです。但し、人間になるべくして生まれた「人」という生き物であるということです。ということは、生まれたときというのは物事の道理が何も分からない状態、それが誕ということです。そして赤ちゃんが生まれたときは一人だけ生まれるのではない。生まれた瞬間に、必ずお母さんも誕生するし、お父さんも誕生するのです。おじいちゃんも、おばあちゃんも全てのものが同時に誕生する。そして、その後に的確な手が加わって初めて人間になるための道に立たせていただく。そこから人の歩みが始まっていくのだろうと思います。

仏教という言葉も二通りの読み方が出来ます。一つは「仏の教え」、もう一つは「仏になる教え」です。仏教の目的、釈尊は私たちに何のために教えを説いて下さったのか。それは、この私が仏になるためです。ここを外したのでは意味がなくなります。では、仏になるとはどういうことなのか。それはまず、この私が人間になるということです。人という生き物に生まれて、唯一、人間になる可能性を持った人という生き物。ですから、そこに教えがなくてはならない。誕生を祝うというのは、そのような意味あいがあると思います。

 

☆【感覚を育てる「場」を見失う―浄土の喪失―】

「土徳(どとく)」という言葉があります。これは私たちが生まれた世界、国土、あるいは地域、もっと狭めて言えば家庭が持っている雰囲気のようなもので、それが私たちを育ててくれています。例えば、浄土真宗の教えを聞いているご門徒が作り上げてきた家庭の雰囲気、あるいは環境、そういうものが後に生まれてきた人たちを育てていくということがあります。私たちは阿弥陀様の前に座って両手を合わせて「なんまんだぶつ」と称(とな)えて育ってきた。最初は「お参りしてこい!」と言われて、なんだかよく分からないけれどもお参りしてきた。しかし、知らず知らずのうちに拝むという感覚が育てられてきた。これは理屈ではないでしょう。そういうものが私たちの周りには厳然として存在しているのです。この拝むということの根底には、敬う、あるいは尊ぶという意味が必ず含まれているという気がいたします。

亡くなった私の父が、ある夏の暑い日に、農村地帯のバス停から田んぼ道を歩いているとき、田んぼに一人のおじいちゃんがおられた。そしたら父が「暑いなあしっ」と声をかけたそうです。そしたら、そのおじいちゃんは「結構なお照らしですね」と応えられたそうです。夏の暑いときですから、汗をかきながら歩いて行きますと「暑いなあ」と思わず出てしまいます。しかし、稲を育てている人にとっては、「結構なお照らしですね」という言い方が感覚としてごく当たり前に出てくるということですね。これも、生活の中で拝むという感覚が育っている方の言葉ではないかと思います。

しかし、現代社会では拝むということが殆(ほとん)ど無くなってしまっているような気がします。宗教というものが人を救わなくなってしまった時代ではないかと。それ以上に、人を迷わせてしまう状況があるのではないかと思います。それは、宗教が人の持つ欲望に応える形で行われているからではないか。宗教というと、何か願い事をすることだという印象を多くの方がお持ちになっています。大晦日から元日にかけて、日本中で相当多くの人数がお参りに行きますが、殆どの方が自分の欲望を満たそうとお参りをします。逆に、それを受ける側はそれぞれの欲望に応える形で行なっているのが現状でないのか。すなわち、宗教が何か人に媚(こ)び諂(へつら)っているようなことがあろうかと思います。

先ほど言いましたように、人として生まれて、人間になるための道に立たせていただいた。そして様々な経験を積み、体験をし、知識を得、そして育っていくのだけれども、今は、本当の意味の感覚を育てるということに繋がっていないのではないか。現代社会は全てのものが数字でもって価値判断がなされている時代ではないでしょうか。出来が良いか悪いかはすぐ数字で表されてしまうように、子どもたちも数字に追い掛け回されています。

考えてみれば、私たちの命を生み出し、育て、支え続けているのは、大地の「はたらき」でしょう。しかし、その大地に深々と頭を下げるどころか、「その大地は値段が何ぼだ」と判断してしまうような風潮が当たり前のような形で行われているのではないかと思います。ようするに、私たちは今、「場」を見失ってしまっているのではないか。浄土真宗の言葉で言うなら「浄土」ということです。あるいは環境、もっと狭めて言うなら家庭という言葉に置き換えても良いかもしれません。

 

☆【家畜小屋なのか、人間の住む家なのか―家庭―】

「家庭」という字があります。「家」という字を分解すると、ウ冠、その下に「豕」という字が付いています。ウ冠の方は家、建物の屋根を表します。(「豕」の字を指して)この字は見覚えがありませんか。ここに「月」を付けると「豚」という字です。ようするに家畜です。家畜は人間にとって価値があるということで、屋根を付けて大事にする、家で飼っているということです。つまり、家というのはもともと豚小屋。私たちは豚小屋に住んでいるということです(笑)。「家は大事だ」と言いますが、もともとの成り立ちを見ると家畜小屋ですから、ご縁のある方が集まっても、それぞれが別な方を見て「ブーブー、ブーブー」言っている、下手をすると単なる家畜小屋になりかねない。そこに、「庭」(てい)という字が付けられた。これが大事なんです。(「广」の字を指して)これは構え「广」(まだれ)、家の庇(ひさし)、屋根ですね。その中にある「廷」という字は、今はあまり言いませんが、「朝」という字を付けると「朝廷」ですね。朝、天子様がおられるところに高官が集まってきて広場で政(まつりごと)の相談をした場所、あるいは行なう場所が朝廷。この「廷」というのは、家の中庭とか家の外の広場を表します。ですから、私たちの家に家族が話し合いをする場・庭(てい)があるかどうか。それによって、豚小屋になるか人間の住む家になるかの瀬戸際になっていたということです。

朝、目が覚めて、一番初めに出会った方と向き合い顔を見て「今日は顔色が良さそうだ」とか、あるいは「何か疲れているみたいだな」と確認して「おはようございます」と挨拶が出来るかどうか。これが庭(てい)ということです。ひょっとすると、現代社会は「家」だけがあって「庭」が抜けてしまったのではないか。それで、この「庭」を、真宗門徒の流れはちゃんと作って下さった。それが「お内仏(おないぶつ=仏壇)」です。お内仏は単に亡くなった人を飾るためのものではないのです。私たちの家が家庭になれるかどうか。そして一人一人、そこに暮らすものの感覚がキチンと育てられるか、人間らしい人間として育っていける身になれるかどうか。浄土真宗の歴史では、お内仏をお飾りすることによって役割を果たしてきました。仏様に真向かって両手を合せ、「なんまんだぶつ」という仏様の呼び声を私たちの身に響かせて育てられてきたのです。そういうことによって、人間という生き物に育てられてきたのだと思います。

 

☆【物事が生まれると、そこには死がある―生死―】

それで、仏教の大きな目標は仏(ぶつ)に成るということですね。この身が仏の教えをいただき、人間らしい感覚を育てていただいて、そして繋がりをしっかり認識して生き切っていく。そしてその先に見えてくるのが仏ということになるのでしょう。そういう立場に立たせていただいた姿を「往生」という言葉で表現して下さったのです。往生が人間の究極の目的だったのではないでしょうか。だからこそ仏陀は「教えを聞け」「教えを灯火として生きよ」と遺言して下さったののす。それを現代人は欲望を満たす対象として考えてしまった。お釈迦様でも阿弥陀様でもお飾りをして欲望をぶつけたならば皆同じになってしまうのです。ただ真宗のそれらしい形をしているだけでは門徒とは呼ばないのです。

親鸞聖人の奥様である恵信尼公が遺されたお手紙に「親鸞聖人が比叡の山で20年間、修行・学問をなされた。しかしやがて、その山を下りられて法然上人の門・念仏の教えに入られました。それは、生死(しょうじ)を離れるため」(講師訳)というお言葉があります。「生死を離れる」。「生死」は「しょうじ」と読みます。現代では「せいし」と読みますが、そういう読み方をしますと西洋的な感覚になります。「しょうじ」と読んだときと「せいし」と読んだときとどう違うのか。これも、今の感覚でいうと、間に「と」の字を入れ「生と死」、あるいは「生か死か」と。そうなると、「生は輝かしいもので良いもの、死は嫌なもの」と、生はプラスで死はマイナスだと分けて考えるのです。だから、生は皆、喜んで近づくけれども、死というと皆、眼を背けようとします。出来るだけ近づけたくないと、死が近づくことを極端に嫌い、一所懸命、排除しようとするのでしょう。

最近、「おくりびと」という映画が話題になりました。主演の俳優さんが、以前、青木真門さんの『納棺夫日記』を読んで感銘を受けたという話がありました。その本の中に、「生死(しょうじ)」について受け止めるための譬えを紹介しています。日本で「霙(みぞれ)」という言葉がありますよね。これは雨でしょうか雪でしょうか。雨かと思えば雨でなし、雪かと思えば雪でなしと言う(笑)。西洋思想はどちらかに決めてしまう。霙という概念はないのです。雨の割合が多いと雨、どちらかにハッキリさせないと収まりがつかないのです。日本では霙はどこまで行っても霙、それでキチッと落ち着くのです。「今、降っているのは雨だべか、雪だべか」と議論する人がいますかね。恐らくいないと思います。だから、生死を「せいし」というと、生か死かどっちかです。ところが「しょうじ」というと、どこまで行っても「しょうじ」です。これは、物事が生まれる、作られるというと、必ずそこには死がくっつくんです。一つなんです。これが日本の古来の感覚です。

(次号へ続く。文責・浄影寺)