HOUZOU

 

真宗大谷派 浄影寺

 


トップ お寺紹介 真宗の教え お寺の活動 本堂再建 日記 

参拝のご案内(永代納骨・永代経) 関連リンク 浄影寺再建への参画について


 

 

最新ニュース

 

時代の闇に抗した念仏者を訪ねて-高木顕明師-(2018年6月22日)

 

 

ネットでお寺訪問−浄影寺はこんなところです−

→浄影寺再建への参画の詳細はこちら

 

特集 時代の闇に抗した念仏者を訪ねて

-高木顕明師-         2018622

近代、それは日本の夜明け」「近代化という華々しい美名のもとに、日本が西洋列強と肩を並べ、世界的な大戦争に突き進んでいく時代でもあった。当大谷派も例外なく、国策に追随し、戦争に加担してきた歴史の暗部でもある。そんな宗派が、1995年に不戦決議を出した一連の宗門近代史検証作業の中で、宗派から追放あるいは無視される形で、時代の闇に葬られてきた念仏者を知ることになる。彼らはまさに、時代の闇に抗した念仏者たちだった。大逆事件に連座し獄死した高木顕明師はその一人。ただ、被差別部落のご門徒と共に生きようとした師を追放していく。この当派の非違の歴史を検証し、私たち一人ひとりが、彼らが担った課題に触れていくことが求められている。盗聴法」「共謀罪という法律が成立後であればこそ、である。

6月22日から24日、大逆事件の舞台になった場所の一つ・和歌山県新宮市を訪ね、市内フィールドワーク並びに顕明師ゆかりの浄泉寺で勤修された師の祥月命日遠松忌法要に、仲間と共に参列した。大逆事件を通して死刑制度も考えてみたい。

 

「大逆事件」に連座・思想弾圧された

新宮、熊野のフロンティアたち

6月22日、電車を乗り継ぐこと11時間、和歌山県新宮市に到着、この日は移動だけで一日が終わった。お世辞にも交通の利便性が良いとは言えない地域だが見方を変えればこうとも言える。新宮・熊野を中心とする紀伊の文化は、寧ろ、この地の利によって護られていたと。そして後にみるように大逆事件連座者の一人・大石誠之助などは、何度も海外へ渡航し医療技術のみならず、先進的な精神文化を昇華させていくという、半島ゆえの特性があった。

大逆事件は1910年近代日本の歴史における闇であった。これを発端に、国家がその目的のために手段を選ばない、言わば恐怖政治が始まった。国家権力によって全く関係のない3つの事件が、幸徳秋水を首謀者とする明治天皇暗殺という事件にまでフレームアップされ、旧刑法を根拠に逮捕、24人が裁判という名のの舞台に配役され死刑判決を受けるという翌日12人が減刑、言論・思想への弾圧事件だ。事件に巻き込まれた高木顕明以下、顕明はじめ、新宮・熊野の6人は、如何にして人権のフロンティアとなり、弾圧をうけることになったのか。彼らを生み出した新宮・熊野の風土を感じたいと思う。

 


「大逆事件」に連座した人々=明治42年頃

前列左から大石誠之助、峯尾節堂、玉置真吉。後列左から崎久保誓一、高木顕明、新村忠雄

 

「大逆事件」犠牲者顕彰碑

「大逆事件」犠牲者顕彰碑『志を継ぐ』

【「大逆事件」犠牲者顕彰碑『志を継ぐ』】

朝から雨降りで、今回は歩く場所が限られる。案内人は新宮市観光ガイドの会ガイドで高木顕明師顕彰会会員の栗林確さんマイクロバスの運転で登場、1人2役といったところだ。

まず立ち寄ったのが、大逆事件犠牲者顕彰碑志を継ぐ』。2001年、新宮市では大逆事件に連座した新宮熊野の6人の名誉回復が始まる。同年に「「大逆事件の犠牲者を顕彰する会」(二河通夫会長が立ち上がり、2003年に西村伊作記念館敷地に顕彰碑を建立、のち新宮駅にほど近い場所に移転された。この「志を継ぐ」の碑文は、同会顧問で、現在、佐藤春夫記念館館長の辻本雄一さんが筆を執られた名文だ。中でも「志を継ぐ」は作家・中上健次の言葉を採用したもの。冤罪を晴らすことが第一目的だった時代に中上は「冤罪が晴れたらそれでええんか。自由・人権・平等・博愛を4人が命を懸けて勝ち取ろうとした。その志を継いで、いかなあかん」と言っていたと栗林さんこの4人とは大石誠之助、成石平四郎、高木顕明、峯尾節堂のこと。ここに成石勘三郎と崎久保誓一を加えた6名全員が死刑判決となったが、死刑は大石と平四郎)の2人、他の4人は無期懲役に減刑となる。しかし、減刑となるも顕明は獄死、峯尾は病死する。一方、勘三郎と崎久保は獄中から出たが、勘三郎は出て2年程で死亡。昭和まで生きたのは崎久保だけだった。

栗林さんは「我々ガイドは、碑文にある平等・博愛・自由・人権を語り続けなければならんと思います。とにかく、国民に対する弾圧を決意したら、どんなことでもやってしまうのが国家というものだから…」と。

【春日隣保館】

バスは隣保館前に停車。この付近に、かつて臥龍山という山があって、そこに張り付くように被差別部落の人たちが暮らしていた。その近くに大石誠之助の住居があったという。その大石について中上健次は大変尊敬していたという。中上はお祖母ちゃんから大石の話をよく聞かされていた。「ドクトル大石の医院に行ったらトントントンと3回、叩くんや。そしたら何も言わんと、ドクトルは皆を診察してくれる」と。ドクトルとは「毒とる」という大石誠之助の愛称だ。大石は収入の乏しい被差別部落の人に対しては、診療費を受け取らなかった。当時の医師は無料診察も珍しくはなかったが、被差別部落地区へ往診に入っていったのは大石だけだった。そうした話をよく聞かされた中上健次は大石を尊敬するようになったのではないかと、栗林さん。この春日隣保館には中上健次の原稿や資料が多く所蔵してある。ここから市民による「熊野大学」の前身が始まった。活動は著名人の他、被差別部落の古老の話を聞く。その中に例えば、顕明の寺・浄泉寺の門徒で知恵のあるお婆ちゃんの話もある。顕明亡き後、その旦那さんは坊さんではないが、ずっとお弔いをしている、そのような実話が中上の『千年の愉楽』に出てくる。

【「大逆事件」資料室】

雨がますます強くなる中大逆事件資料室に到着。ここは、かつて峯尾節堂資料館だったが河川水害の影響で閉鎖、現在は大逆事件犠牲者を顕彰する会が運営している。栗林さんは、人の方がこの事件の本質を捉えていると、力を込めて言う。「二河通夫先生は、冤罪というなら犯人を挙げなきゃならん。ところが、この事件には犯人がいない。大逆罪を考えた人は一人もいない。だからこれは、冤罪事件ではなく弾圧事件と捉えるべきだと」「辻本雄一先生は「大逆事件」にだけ必ず括弧をつけるんです。括弧を付けずに書いてしまうと、恰も「大逆事件」があったように印象づけられてしまう」と。事件そのものが存在していないのに、存在しているがごとく国家が作り上げ思想を弾圧していく。栗林さんは事件の本質を語られた。

なぜ大逆事件が起こったのか。直接には日露戦争で国が戦費を使い過ぎていたことが大きい。栗林さんによると、国家予算が4億円で一般的初任給が20円の時代。戦費に数十億円かかかり、借金が8億円まで膨れ上がっていた。次の軍備資金確保の中、国民生活がますます困窮し、暴動も起こる。そうした状況の中で、無政府主義や社会主義が不公平を感じている多くの人たちに影響を与え始めていた。特に、幸徳秋水の言葉に共鳴したのが、死刑判決を受けた24だった。ここに社会主義者らを一網打尽する好機とみた国家は、旧刑法「大逆罪」を根拠に大量検挙した。旧刑法の73条には天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタルモノハ死刑ニ処スとあり、裁判となれば大審院の一審のみで非公開で進められ、判決は死刑のみ。上告はない。

 

大石誠之助

大石誠之助

 


幸徳秋水

この裁判で、顕明と崎久保誓一の弁護をしたのは、与謝野鉄幹から依頼された平出修だ。裁判の中で平出は「これだけのことをやるなら、いつ、どこで、誰が、何を、ということが決まっていないと出来るはずはない。初めて裁判所で顔を合わせた人ばかりで、謀議した形跡が全くない」と事件の矛盾点をつき、検察の捏造であることを指摘した平出の弁護は素晴らしいと栗林さん。

そしてその平出の裁判記録を受け、「大逆事件」の真相を知る人物がいる、石川啄木だ。啄木は 「「大逆事件」は相連絡なき三個の罪案をひとまとめにして、国内の無政府主義を一挙に撲滅する機会を作ろうとしたものだと指摘、事件の核心を掴んでいたしかし啄木は間もなく、26歳の若さで亡くなる。啄木は3つの事件、すなわち、菅野須賀子や宮下太吉などの 天皇暗殺企画、内山愚童による皇太子暗殺計画、そして幸徳秋水を中心とした東京市占領計画。このうち3つ目の件に関して、大石誠之助を中心とする新宮グループが事件に巻き込まれていった。栗林さんはそんな事件なんか無いんや。恰も、あったかのように調書が書かれていく。船に乗って宴会をしていることも謀議と書かれていくんやと。関連のない3つの事を一つの事件としていったことに対して、オカシイと言ったのが啄木だった。こうして24人が死刑判決を受けた。しかし、その翌日に12人が無期懲役に減刑。そして無期懲役になったものに対して「良かった」という、ここにも大きな落とし穴がある、と栗林さん。「天皇陛下の恩命」という言葉で、存在しなかったことが事件として事実化されてしまう国家の巧みな構図を指摘された。「佐藤春夫が実に上手いことを言っている。狼が羊を食いたいと思ったら、どんな理由を付けても羊を食うんやて。国家もこいつらは邪魔やと思ったら、どんな理由を付けてでも排除していく」と。

展示品の中には、丸木位里・俊の絵画『大逆事件』(模写)が壁一面に掲げられていた。「本物は迫力があるね。これは実写ではないかと思いました」。「大逆事件」で死刑となった12人とそれぞれの上には絞縄が置かれ、絵の左端には生々しい絞首刑の模様が描かれていた。この絵の右側に大石誠之助が描かれている。栗林さんは「誠之助は1911年1月24日の2時23分に処刑絶命しました。それから107年後の今年の1月24日同時刻に、新宮市は彼を名誉市民にしました。凄いでしょ」と遅かったとしつつも、誠之助の名誉回復を喜ばれた。

 

「大逆事件」資料室IMG_5354

案内していただいた栗林確さん

「大逆事件」資料室IMG_5325

 

「大逆事件」資料室IMG_5345

丸木位里・俊夫妻が描いた『大逆事件』(一部)

「成石勘三郎さんは「大逆事件」からもっとも遠い人です、誠之助には1回か2回しか会っていません。地区のために新しい農業を目指して生活が安定できるようにと頑張っていた人なんです」。ところが処刑され、地域の人は無関係を装った。仮に、獄中から出た人が、作った作物を出荷するも、「事件に関わった土地で作ったものなんか食えるか」と言われる。また、仕事に就けず、残飯をあさって生活していく人。こういう事例もあった。死刑判決が出た時、大石誠之助の診療所前に紙が張り出されると、「あの人は悪い人やったんかね」と話す人の会話を誠之助の子どもが聞いて意気消沈したなど、「大逆事件」の連座者のみならず、その家族は「逆徒」として非業の生活を余儀なくされてきた。

栗林さんが突然、問いかける。「黒葬礼って知っていますか。深夜、蝋燭一本も点けずに、真っ暗な中で行う葬式で、世に憚る人たちの葬式はこのようにやったのです」「大逆事件」犠牲者の遺族の人たちに、そんな悪いこと、絶対してないんだから、堂々と胸を張って表に出てきてもらう、それが私たちの活動なんです」と。

ところで、事件に連座した新宮・熊野の人々は、ある意味では必然的であったともいえる。つまり、非戦・平和・反差別に生きたがゆえに、加えて、顕明は親鸞の精神を生きる念仏者であったがゆえに、国家による弾圧を受けたのだ。大石誠之助との関わりの中で見えてくる。医者である大石は西洋など海外渡航が多かった。その中で印度へ行った時、カーストという厳しい差別を知り社会主義の書籍を入手、帰国。ところが、新宮でも被差別部落の人々に対する厳しい差別を目の当たりにすることになる。そこで大石は顕明と共に部落解放推進の組織虚心会」を作った。実に「水平社宣言」が世に出る16年も前のことである。

一方、真宗大谷派から追放されていた高木顕明は、1996年4月、告示第10号によって、「住職差免」「擯斥」処分を取り消され名誉回復がなされた。そこには宗門として国家に追随し顕明を追放したことへの慚愧と謝罪を述べ、顕明の事績に学び顕彰していくことを呼び掛けている。同時に「不戦決議」を公表して以来、顕明は私たちの課題となった。

新宮・熊野の6人は部落差別問題、そして戦争に対して正面から向き合った。こんなエピソードを紹介して下さった。当時、顕明のお寺は被差別部落のご門徒が多く、経済的に恵まれていない家が多かった。「戦争協力や忠魂碑建立のためお金を出せと言われてもよう言わんというと、非国民だと言われていたんです」。また、新宮に公設の遊郭が建設されようとした時、顕明は絶対反対という意思を示し、遊郭が出来てからは入口で客を捉まえ説教し頭を殴られることもあった。これについて栗林さんは「ご門徒の被差別部落の多くの少女たちが遊郭で働いていたんでしょう。部落差別はアカンというのと共通したものです」。その一方で「この人は、元は差別者でした」と。では、何が顕明を変えたのか。

 

高木顕明

高木顕明

「大逆事件」資料室IMG_5337

大審院

沖野岩三郎の小説に『彼の僧』がある。これは顕明をモデルしたもの。入寺したばかりの頃、被差別部落のご門徒宅の法事へ招かれ食事が提供されることがあった。「法事で出てくる料理は喉が通らんかった」と。一方で、法事費用に疑問を感じ聞くと、下駄の鼻緒を直すなど、貧しい中から苦労をして工面していたことを知ると、「それで方向転換が起った。そして布施を貰うわけにはいかないと、顕明さんは自ら按摩になって、自分の食いぶちを稼いでいたのです」。それ以降、被差別部落の子どもたちを集めて勉強を教える活動もしていたという。

被差別部落のご門徒との関わりの中で、念仏者・高木顕明が育まれたと言っても過言ではない。親鸞聖人の教えに誠実に生き、同朋社会を実践しようとする顕明にとって、部落問題や非戦平和問題は出逢わなければならなかった課題であり、それゆえに、「大逆事件」連座者となってしまったのである。顕明の著作『余が社会主義』の中に登場する「共に」という言葉が、改めて輝きを放っている。

【速玉大社「忠魂碑」】

佐藤春夫記念館に降り立ち、速玉大社の社殿を通り過ぎると、鬱蒼とした樹木の葉に覆われた一角に忠魂碑があった。ミサイルの形をした碑は、あまりにもグロテスクだ。日露戦争勝利に沸き立つ大衆に「万歳を叫ぶのをやめよ」と公然と反対した顕明は、忠魂碑の建設についても反対した。

 

 

速玉大社「忠魂碑」IMG_5369

忠魂碑=速玉大社

 

顕明師新墓地02

高木顕明師顕彰碑

 

遠松忌法要 勤行IMG_5387

遠松忌法要

南谷墓地「高木顕明顕彰碑」

新宮市内のフィールドワークを終え、一行は市内郊外にある南谷墓地に向かった。あいにくの雨で、「高木顕明顕彰碑」に続く道は川と化したが、大勢の人が焼香にみえていた。この顕彰碑は1995925日に宗派が建立したもので、その隣には浜松にあった旧高木家の墓が移設されている。

高木顕明師ゆかりの浄泉寺で勤修される「遠松忌法要」に先立って、午前11時から顕彰碑前勤行が勤まった。

 

2017年 講師に東北別院輪番

住職ら10人出仕のもと「報恩講」厳修

年11月5日、晴れ渡る秋空の中、仙南地区の真宗寺院ご住職ら10人出仕のもと報恩講が厳修され、「正信偈」の声が本堂内に響き渡りました。勤行の余韻が残る中、『御俗鈔』が拝読されました。 

『御俗鈔』は親鸞聖人の誕生から入滅までのご生涯を蓮如上人が著したお手紙。朗読の間、参詣者はそれぞれ聖人のご苦労を偲んでいました。

その後、若干の休憩を挟んで東北別院の清谷真澄輪番から報恩講法話、「今、いのちがあなたを生きている」の講題のもと、お話しをいただきました。(下記に法話抄録)

法話終了後、庫裡にて「おとき」(昼食)、秋の味覚に舌鼓を打ちました。

IMG_5169 IMG_5154

真宗宗門徒にとって報恩講は一年で最も大切な御仏事で、宗祖親鸞聖人の御苦労を偲ぶ、御命日法要です。ご本山・東本願寺(京都市)では毎年1121日から28日までの7日間勤められ、全国から多くのご門徒が参詣されます。それに先立って、全国各地にある真宗寺院でも報恩講が勤められており、ご本山より前に行なうことから「お取り越し」とも言われています。

当院の報恩講では、法話講師への出向依頼、記念品の発注、本堂の大掃除、本堂仏具のお磨きなど、約1カ月以上前から準備を致します。特にお磨きでは、蝋燭や御香の煙でくすんだ仏具の汚れを、力を込めて研磨した後は、見事に見違えるほどの輝きを取り戻します。そして打敷と水引きを中央の前卓にかけ、須弥盛というお飾りを設置、人の上半身ほどの大きさにもなる佛華を整えます。

 

IMG_5123

本堂仏具のお磨き。真鍮製の仏具は、磨くと輝きが戻ってくる。

 

IMG_5136

平常よりボリュームのある報恩講の佛華

報恩講は何と言っても「おとき」(昼食)。これも楽しみの一つです。浄影寺では婦人部(大野浩子婦人部長)を中心に、半月ほど前から献立を決め、食材を調達する準備をします。新米や季節の食材をふんだんに使用した精進料理は、今や、「浄影寺の味」として代々、引き継がれています。作業についてお訪ねすると、婦人部の皆さんは、高齢者が食べやすい大きさや歯ごたえにも考慮しながら調理をされているそうです。料理の味もさることながら、食べやすさにも配慮した「おとき」。「参詣される方々が法話で心が満たされ、食事でお腹が満たされることが何より嬉しいです」と。

 

IMG_5128

前日から、味付け、盛り付けを相談しながら下ごしらえをする

 

IMG_5132

高齢者でも食べやすいようにと工夫を凝らして準備する

 

 

 

IMG_5176

「おとき」。椎茸は親鸞聖人の笠、ゴボウは杖になぞらえて、聖人を偲んできたという

 

2017年「春の法要」勤修

「古里という居場所を失ったら生きてはいけない」

石田宏壽先生

 春穏やかな5月14日、「春の法要」を勤修致しました。この法要は釈尊の御誕生、宗祖親鸞聖人の御誕生、前住職・隨恵師の命日を縁として、毎年5月の第2日曜日に勤められています。本堂内では正面の大きな前卓に掛けられた打敷、その上には平常より大きく飾られた仏華が整えられました。また本堂の外に掛けられた五色幔幕、玄関には誕生仏を安置した花御堂が参詣者を出迎えました。誕生仏は釈尊誕生の時、七歩歩いて天と地を指した姿を表現したもので、天から甘露の雨が降ったという故事から、日本では甘茶を注いでご誕生をお祝いしています。

当日は午前10時から勤行・『御文』拝読、続いて、福島県郡山市の道因寺住職・石田宏壽氏が『忘れない そして 未来に』という講題でご法話されました。法話の中で石田先生は2011年に発生した東日本大震災に触れ、「人は古里という居場所を失ったなら生きてはいけません。(震災を)忘れないことが古里に通じていくのです」「親鸞聖人は、仏様からの眼差しに気づくということを通して、古里を伝えたかったのではないでしょうか」と語られました。

 法話後、護持会総会を開催。前年度会計報告および今年度会計予算が提出され了承されました。終了後、婦人部(大野浩子部長)の皆さんが調理されたお斎(精進料理)に、参詣者一同、舌鼓を打ちました。

 

2016年「報恩講」

清谷輪番を講師に厳修

昨年(2016年)11月6日、報恩講が厳修され、仙南地区・真宗寺院のご住職ら10人出仕のもと正信偈の声が本堂内に響き渡りました。報恩講とは宗祖親鸞聖人のご命日の集いで、聖人のご恩に心を寄せる御仏事です。御本山・東本願寺では、毎年11月21日から28日に渡って厳修されますが、それに先立って全国の真宗寺院でも報恩講が勤められています。

 当日は午前10時から勤行・御俗鈔御文を勤め、その後、法話。講師は東本願寺東北別院の清谷真澄輪番で、「ただ念仏」という講題でお話をいただきました。先生はハンセン病問題に触れ「国策の強制隔離によって、ハンセン病患者は故郷と名前を奪われた。名前を奪うということは、存在の根拠を奪うということ」「名前が働いているのがお念仏です」と語られました。

 法話後、参詣者は庫裡に移動、浄影寺婦人部(大野浩子婦人部長)が用意された「おとき」(昼食)に舌鼓を打ちました。

 

2016年「-釈尊誕生・宗祖誕生・前住職命日-

「春の法要」勤修

IMG_4701

穏やかな春の日差しが心地いい5月8日、「春の法要」を勤修しました。この法要は仏教を開かれた釈尊の御誕生(4月8日)・浄土真宗を開かれた親鸞聖人の御誕生(4月1日)・浄影寺前住職隨恵師の命日(6月3日)を御縁に勤められる法要です。当日は参詣者と一緒に「正信偈」を勤めた後、いわき市・明賢寺住職の藤内和光先生から「地獄・極楽」と題して、法話をいただきました。お話の中で先生は、地獄は人間が作る現実世界であることを仏様が指摘されたのです、と話されました。

 

沖縄戦から71年・現地からの報告

(ぬち)どぅ(たから)-沖縄から日本を考える

20160201沖縄別院IMG_4338

東本願寺沖縄別院

2016年2月1日から3日、仙台から飛行機で約3時間、沖縄戦から71年目となる「琉球」に私はいた。東北は真冬、しかし、沖縄ではどこか春を感じる。初日、まず訪ねたのは東本願寺沖縄別院。2010年4月、東本願寺沖縄開教本部は借家から、宜野湾市の米軍普天間基地に程近いところに移設、別院を建立した。その玄関には、沖縄出身初の大谷派僧侶で沖縄の人の地位向上に力を注いだ玉代勢法雲(たまよせ・ほううん)の写真が飾られていた。ご輪番から東本願寺の布教活動の説明を聞いた。

聞法道場「何我寺」

左から三線・掛軸「命どぅ宝」・本尊

=聞法道場「何我寺」

2日目、知花昌一さんが建立した聞法道場「何我寺」を訪ねた。知花さんは普天間基地の地主で平和運動家、のちに真宗大谷派僧侶となった。「キリスト教では宗教改革のルター。日本には親鸞がいた。親鸞に惚れたねえ」。知花さんは大谷派のハンセン病問題の取り組みが切っ掛けで交流を持つようになり僧侶となった。道場に入ると、中央に本尊、右側に親鸞聖人の掛軸、左側に琉球楽器の三線と「命どぅ宝」の掛軸。平和な琉球が経験した悲惨な地上戦で約20万人が殺された。沖縄の人が最も大切にする言葉、それが「命どぅ宝」、命こそ宝という言葉なのだ。

チビチリガマ

知花さんの案内で沖縄の住民が逃げ込んだ2つの自然窟シムクガマとチビチリガマを訪ねた。前者は逃げ込んだ全員が助かり、後者は85人が集団強制死(自決)の犠牲となった。その運命を分けたのは米国留学をした経験のある人の説得で投降して助かったシムクガマ。一方のチビチリガマは、「鬼畜米英」という教育を受け、「捕虜の辱めを受けるな」「ガマを出れば米英にみな惨殺される」といった恐怖意識が強い中で、母親が幼子を殺し、住民同士が互いに殺し合った。ここには遺骨の一部や遺品が残され、暗闇の奥から、亡くなった人の呻き声が聞こえる。今も多くの人が追悼に訪れる。

午後からは辺野古の米軍キャンプシュワブ前で、米軍基地建設反対の座り込みに参加。到着すると間もなく、多くの機動隊が座り込みをしている沖縄の人たちを強制排除しだした。これが連日のように繰り返されている。「人を殺しに行く基地はごめんだ」「命こそ宝」、そんな声が響き渡る。非暴力で訴える人を強制排除する機動隊を前に、ただ立ち尽くしかない自分。70年経った今も、ここに沖縄戦が続いている…。

キャンプシュワブで座り込みをする沖縄の人たち=沖縄県・辺野古

佐喜眞美術館

3日目、普天間基地に隣接する佐喜眞美術館へ行った。ここは基地に入り込んでいるので、軍用機の滑走路がよく見える。日本にある米軍基地の70%が、日本の僅か1%に満たない沖縄に置かれている。特に、普天間基地は住宅などが密集している危険な場所だ。そもそも、米軍基地は米軍が沖縄を占領後、すぐ住民の家屋や土地を強制接収したことで作られたのだ。これについて沖縄の人は「銃剣とブルドーザー」という言葉で語っている。ここには沖縄戦を描いた画家の丸木位里・俊夫妻(故人)の絵画「沖縄戦の図」が展示されている。戦争の残虐性と愚かさ、そして人間の慟哭…見るものをして、生き地獄を感じさせる作品だ。

そして最後に首里城。本土とは異なり、中国や朝鮮半島との交易が盛んだったことが分かる建築様式だ。まさしく、かつては琉球王国だったのだ。日本は琉球独特の言葉や文化を奪う同化政策を行い、軍事力をもって「琉球処分」という名の併合を行った。朝鮮にしてきたことと同じ国策だ。

憲法改正が現実味を帯び、戦争できる「普通の国」に向かいつつある今、私たちは沖縄から日本を見、戦争を考える視点がとても大切であると考える。国家によって棄民となった人々が何を見てきたのかを知ることは、これからの日本や自分の生き方を考える上で大きな課題を与えてくれるものと感じている。

首里城=沖縄市

 

2015年 報恩講厳修

〜宗祖の生涯に学ぶ〜

諏訪敦雄先生

穏やかな秋晴れとなった2015年11月1日、仙南地区・真宗寺院のご住職等10人出仕のもと報恩講を厳修、正信偈の声が本堂内に響き渡りました。報恩講とは浄土真宗の宗祖親鸞聖人の「御恩に報いるつどい」で、全国の真宗寺院では、毎年11月21日から28日の一週間に渡って厳修される御本山・東本願寺の報恩講に先立って勤められています。

当日は午前10時から勤行・御文を勤め、その後、法話。講師は昨年に引き続いて会津若松市・正教寺住職の諏訪敦雄先生で、「宗祖の生涯に学ぶ-現在(いま)を生きる-」という講題でお話をいただきました。

先生は「命は私有物ではない、公性、公のものです」「(命について)長く生きるのと深く生きるは違う。長生きでも短命、短い命でも長命ということもある。年寄りは過去に生き、若者は未来に生きている。しかし、生きているのは《今》なのです」と述べられ、「死を大事にしてきたのは、(深く生きることについて)死から学ぶことが多いからです」と静かに語られました。

 法話の後、庫裡で浄影寺婦人部が用意して下さった「おとき」(昼食)に参詣者は舌鼓を打ちました。

 

秋季彼岸会法要・門徒物故者追弔法要

2015年9月23日に秋季彼岸会法要が勤まりました。これは門徒物故者追弔として勤修された法要で、命日に当たる家族やご門徒が参詣しました。 午後2時から勤行、その後、副住職が「今を生きていますか」の講題で法話をしました。

 

春の京都 本山・東本願寺等参拝旅行

〜親鸞聖人御旧跡を訪ねて〜 2015414日〜16

 

桜花の余韻が残る2015年4月14日から16日、「京都・東本願寺等参拝旅行」を実施、浄影寺門徒13人が真宗大谷派の御本山・東本願寺などを参拝しました。この参拝旅行は、震災から4年越しで実現したものでした。

4年前の2011年3月から5月にかけて、御本山では「宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要」が盛大に執り行われ、浄影寺から多くのご門徒と共に3月の法要に参詣する予定でした。「御遠忌」(ごえんき)とは、浄土真宗を開かれた宗祖親鸞聖人の御命日のことで50年に一度執り行われる、私たちにとって生涯に一度の法要となります。ところが同年3月11日、東日本大震災が発生し、未曽有の大災害になったことから、御本山への参拝を中止せざるを得ませんでした。

あれから4年、仏縁熟して、御本山への参詣が成就しました。御本山へ分骨をされている方や参詣が初めての方など、様々な思いの中でお参りをいたしました。

IMG_4103shorenin02[1]

 

1日目【青蓮院】 

414日早朝、遠刈田温泉や他の地域から仙台空港で合流した一行13人は、一路、伊丹空港を経て京都市内へ。天候はあいにくの雨。最初に訪ねたのは天台宗の門跡寺院・青蓮院。門跡寺院とは天皇直轄の寺院のことで、規模は小さいながらも由緒ある古刹だ。

 この青蓮院は、親鸞聖人が8歳の時に得度(仏門に入ること)されたお寺で、剃髪(ていはつ)を行ったのは後に天台座主となる慈鎮和尚と言われる。夕暮れに青蓮院の門を叩いた親鸞聖人は、明日訪ねるよう和尚に勧められたが、聖人は「明日、ありと思う心のあだ桜 夜半(よわ)に嵐の吹くものかわ」と歌を詠み、得度を懇願したという。

ここ親鸞聖人が剃髪し御堂が当時のまま遺っており、剃り落した髪も供養されていると聞く。

 

【元大谷・崇泰院】

青蓮院の門を出て、神宮道をしばらく歩くと、崇泰院(そうたいいん)というお寺が見える。ここは本願寺発祥の地・大谷という場所。親鸞聖人亡き後、聖人の御真影を安置する小さな廟堂を建て末娘の覚信尼が「留守職」(るすしき)として護っていたと伝えられる。

gate[1]

 

 

IMG_4110

知恩院

 

IMG_4119

大谷祖廟

 

【知恩院】

崇泰院を過ぎると、大きな石段の上に一際大きな山門が見える。浄土宗の総本山・知恩院だ。

浄土宗を開いたのは法然上人。この法然上人こそ、若き親鸞聖人の先生であった。8歳から比叡山でご修行なさった親鸞聖人ではあったが苦悩はますます深まるばかりであった。29歳の時、聖徳太子ゆかりの京都・六角堂へ百日間参籠し夢のお告げを聞く。この後、念仏によって誰でもたやすく救われると説く法然上人の草庵をお訪ねし弟子となったのが親鸞聖人である。親鸞聖人は法然上人の教えにより大きく人生を変えることになる。

しかし、その後、法然上人の吉水教団は他の仏教や朝廷から弾圧を受け解散させられてしまう。法然上人は土佐へ、親鸞聖人は越後へ流罪となる運命を辿ることになる。

【大谷祖廟】

知恩院から円山公園を抜けると、長い参道が出迎える。親鸞聖人のお墓所「大谷祖廟」だ。ここには東本願寺歴代の御門首と全国のご門徒のご遺骨が収められている。

 

IMG_4141

 

IMG_4137

 

◇2日目【六角堂】

2日目。宿泊先からほど近いところに六角堂があるので、東本願寺へ参詣する前に訪ねた。

正式には六角堂 頂法寺という。池坊発祥の地として有名であるが、ここは、法然上人に出遇われる前に、29歳の親鸞聖人が参籠したお御堂。聖徳太子が創建されたとされる六角堂は、古くから庶民の聖徳太子信仰と夢のお告げを聞く場所として信仰されていた場所だ。御本尊の如意輪観音は聖徳太子の本地として知られている。多くのビルに囲まれた都会の真ん中にありながら、境内に入ると静寂であることに驚く。境内の中央に六角堂、右手には夢告を聞く親鸞聖人「夢想の像」が安置されている親鸞堂がある。

 

【東本願寺】

六角堂からタクシーで烏丸通を南へ。しばらくすると、正面に聳え立つ京都駅ビル、右手に京都三大門の一つ御影堂門。この御影堂門こそ、真宗大谷派の本山・東本願寺の山門だ。

東本願寺に到着するなり、副住職の案内でまず諸殿案内。東本願寺は正式には真宗本廟、つまり、真宗門徒の帰依処であり、根本道場という意味だ。

御影堂門から境内に入ると鳳凰が羽を広げたように一際大きな伽藍が見える。親鸞聖人の御真影が安置されているこの御影堂を参詣して諸殿を見学しよう。

少しく東本願寺の歴史を紐解くと、本願寺12代・教如上人は、豊臣秀吉の策略により隠居させられ弟の准如上人が跡を継ぐことに。しかし、秀吉死去後、徳川家康が勢力を持ち始めると隠居した教如上人に東六条の土地を寄進し新しく本願寺を建立させた。これが現在の東本願寺、1601年のこと。これにより、本願寺は東西両本願寺に分派することになったのだ。

東本願寺は過去に4度火災に遭い、その都度、再建されてきた。今の伽藍は、禁門の変の兵火により焼失した後、1895年(明治28年に落成されたもの。南北76m、東西58m、高さ38m、大屋根に葺かれる瓦177,5000枚の、世界最大級の木造建築である。

 

【東本願寺・大寝殿】

御影堂から高廊下を歩いていくと、向かいに全国から参詣されるご門徒をお迎えする参拝接待所。その手前で真宗本廟視聴覚ホールのギャラリーを抜けると大寝殿に着く。大寝殿はその名の通り寝殿造り、ご門徒のお斎会場としても使用されている。その中に入ると、日本画家・竹内栖鳳画伯の水墨画がある。竹林を飛び回る雀を描いた「風竹野雀」、念仏に出遇い喜ぶ雀を描いた「喜雀」(歓喜)、そして今にも折れそうな枯れた柳の枝に泊まり眠りふける鷺(さぎ)を描いた「老柳眠鷺」(ろうりゅうみんりょ)、いずれも念仏の世界を描いている。

 

 IMG_4146

=御影堂前                     堰¢蜷Q殿

 

【東本願寺・宮御殿】

大寝殿から奥の廊下を歩いていくと、天皇家から下賜された宮御殿がある。中に入ると、畳の縁が朱色で、襖には宮中の習俗が描かれている。御所にあった建物が、なぜここにあるのか。実は、時代は江戸幕府から明治政府に変わろうとする中で、長い間、江戸幕府に庇護のもとにあった東本願寺は、明治政府のすり寄る形で、政府が推し進める北海道開拓に宗教界としていち早く名乗りを挙げ、北海道に進出した歴史を持つ。北海道はかつてアイヌ語で「アイヌモシリ(=人間の大地)」、いわゆる、アイヌ民族の土地であった。

ロシアの南下を恐れた明治政府は前線として、アイヌ民族の住むアイヌモシリに進出し、同化政策を推し進め、アイヌ民族の言葉や文化、土地を奪っていった。そうした同化政策に宗教面から補完する役割を果たしたのが東本願寺であった。宮御殿はそうした歴史の中で存在している。こうした負の歴史を決して忘れてはならないと思う。

現在、真宗大谷派はそうした近代の教団史を検証し反省の上に立って、

アイヌ民族との交流、非戦・平和の取り組みを行っている。

宮御殿に隣接している池がある。この池の水は琵琶湖から流れているから驚きだ。先に述べたが、過去4回火災に遭っている東本願寺は、明治以降、防火が課題であった。明治になると京都市が市民の飲料目的に、琵琶湖の水を南禅寺付近の蹴上まで疎水工事をした。そこから東本願寺は独自で、蹴上から東本願寺までの高低差を利用して防火用水を引く水道を作ったという。

IMG_4148

宮御殿内の庭を背景に。後ろは御影堂

IMG_4150

宮御殿内の襖絵を見学

 

【東本願寺・御影堂】

午前1040分、再び御影堂。東本願寺職員の案内をいただき御影堂裏へ。行灯だけの薄暗い廊下を進むと、親鸞聖人御真影が安置されている須弥壇の真後ろになる。ここで、須弥壇収骨される方のご遺骨(分骨)が収められる。今回、分骨されたご門徒にとっては、4年越しの思いが募り感慨深いものになった。続いて、御影堂の裏から正面へ移動し勤行。

 

【渉成園】

勤行が終わると、東本願寺飛び地境内の「渉成園」へ。この庭園は国の名勝で、徳川三代・家光のとき、石山上山によって作庭された池泉回遊式庭園。その中にある「臨池亭」という施設を貸し切り、懐石料理に舌鼓を打った。

【清水寺】

食事を終えると東山の清水寺に参拝、夕食は町家風情がある豆腐懐石の老舗料亭「豆水楼」(三条木屋町上ル)、京都の夜を堪能した。

IMG_4168

渉成園内にある臨池亭

IMG_4184

IMG_4182

祇園「辰巳大明神」

 

◇3日目【辰巳大明神】

最終日。日程に入るに先立って、京都らしい風情のある場所にご案内した。祇園の中心・新橋通りにある辰巳大明神。ここは、祇園の舞子さんや芸子さんがお茶屋に出入りする前に必ず立ち寄るお宮だ。石畳の通りに町家、祇園の真ん中を流れる白川の界隈は映画のロケになることでも有名だ。この日は、新郎新婦の前撮り(撮影)が行なわれていた。

 

【金閣寺・龍安寺・仁和寺】

祇園らしい風情のある町家界隈を見た一行は、金閣寺・龍安寺・仁和寺、そして嵐山と観光し、京都を後にした。

2泊3日という短い期間ではあったが、親鸞聖人ゆかりの古刹、そして町家そして春の京都を満喫した旅であった。(完)

 

春の法要勤修  講師は清谷輪番

 〜2015510日〜

 陽光の眩しい5月10日、春の法要が勤修されました。この法要は、仏教の開祖・釋尊(お釈迦様)の御誕生、浄土真宗を開いた親鸞聖人の御誕生、浄影寺前住職・隨惠師のご命日を縁に開かれたもの。釈尊誕生の意味を通して、私たちが人間として誕生したことの意味を考えていくことを願いとしています。

 午前10時、喚鐘の合図で勤行、参詣者と共に声高らかに勤められました。勤行後法話、東本願寺東北別院からご出向された清谷真澄輪番の法話をお聞きしました。

 清谷先生は、まず、「寺は風景でしかなかった」と言われた元オウム信者の言葉を挙げ、死を隠ぺいする社会の問題を指摘、死を頭で考える子どもたちの現状を話されました。元納棺師で作家の青木新門氏の言葉をとおして、皮膚感覚として身体全体で命を感じることの大切さを述べられ、五感で感じる仏事こそ葬儀であると、お話しされました。

 

浄影寺 「報恩講」厳修 〜201411月2日〜

   

前日まで心配された雨も上がり、穏やかな日となった2014年11月2日(日)、仙南地区のご住職ら10人が参勤、浄影寺報恩講(御満座)が盛大に厳修された。

報恩講とは、親鸞聖人のご恩徳に感謝し、真宗門徒として立ち返る法要。真宗大谷派の御本山・東本願寺(京都市)では、毎年11月21日から28日かけて盛大に勤められ、全国から真宗門徒が大勢参詣される。

この御本山の報恩講に先んじて、全国の末寺やご門徒のご自宅で報恩講が勤められることから「お取り越し」とも言われている。

当時は午前10時から勤行・御俗鈔御文が勤まった後、会津若松市・正教寺住職の諏訪敦雄先生から「いのちの深さ・いのちの重さ」の講題で法話があった。

法要後、庫裡にて婦人部による、新米に加え、旬の食材を調理した「おとき」が振る舞われた。

 

秋季彼岸会法要・物故者追弔法要 勤修(2014923日)

昨年、秋季彼岸の中日・9月23日に、「秋季彼岸会法要ならびに物故者追弔法要」が勤まった。

この法要は、彼岸会法要に合わせ、当院所属のご門徒物故者の追弔法要。特にこの一年に物故者となられた方や年回忌に当たるご門徒が参詣される。

当日は午後2時から勤行、その後、当院の衆徒である釋浄教が「懸っている命-生きるということ-」と題して法話を行った。

 

仙台教区仙南組主催・保養事業

七日原・ハートランド等を会場に「子ども合宿」開催

2014830日〜31日〜

   

8月30日から31日の2日間、仙台教区仙南組(せんなんそ)主催(浄影寺を初め仙南地区6ヵ寺)による保養事業「子ども合宿」が開催された。

この事業は、2011年3月11日に起った東京電力の原発事故により、福島県の広範囲が放射能汚染を受けたことから、子どもたちへの影響を少なくする取り組みとして開催された。

放射線量の中で100マイクロシーベルト以下の低線量被曝の影響については、科学的にまだよく分からないところだが、放射線の影響について閾値(しきいち)がないこと、子どもは大人以上に影響が強いことなどから、体内に取り込んでしまった放射性核種・セシウム等を出来るだけ体外に出してあげることが求められている。

そこで、汚染地域の外で遊ぶことが出来ない子どもたちを放射能汚染の心配がない地域で、思いっきり遊び、食事をすることで、少しでも元気になって貰おうという企画が保養事業。

今回は、福島県二本松市の子どもたち及び親御さん20人ほどが参加、スタッフは仙南地区の寺院の若手僧侶や門徒会、住職で構成され、約30人が参加した。

当日は、ハートランドで開会式のあと、動物との触れ合いやボール遊び、鬼ごっこなどを楽しんだ。その後、宿泊施設内の温泉入浴、バーベキューに舌鼓を打った。一日の締め括りには、花火をし、子どもたちは大喜びだった。

テキスト ボックス: 仙南組「子ども合宿」日程
8/30	内容	8/31	内容
9:30
11:30
12:00
15:00
17:00
18:30	二本松市発
ハートランド
(動物と触合い)
休憩・入浴
夕食・花火
宿泊先	6:30
9:00
10:30
12:30
13:40
16:00	起床・朝食
齋藤農園
ことりはうす
(野鳥観察)
解散式
二本松市着

翌日は、齋藤農園で大根の種まき、続いて、「ことりはうす」を見学後、野鳥の森散策で、子どもたちは走り回るなど、身体を動かしていた。そして、2日間の昼食は、願勝寺婦人会による手料理が提供され、放射能の心配をせずに過ごす、とても有意義な時間となった。

この取り組みは、子どもたちのみならず、日々、放射能の影響を考えて生活を送っている若いお母さんやお父さんが、束の間でも、そのストレスから解放される時間を過ごしていただくため。浄影寺からは、住職・副住職らが参加した。

 

仙台教区主催 3・11 東日本大震災

「心に刻む集い」を開催

命結(ぬちゆい) 去・来・現の命を紡ぐ〜2014522

「心に刻む集い」(以下、集い)は震災で犠牲となられた方々に思いを寄せ、亡くなった方、被害に遭われた方、支援者など、それぞれの「いのち」を紡ぎ、震災を心に刻み忘れないことを願って開催されたもの。震災犠牲者の三回忌にあたる昨年3月に開催されて以来、2回目となる。 

 開催テーマの「命結(ぬちゆい)」は、今回のゲストである歌手・加藤登紀子さんが震災後に犠牲者に思いを馳せて作られた歌から借用したもので、広く沖縄で使用されている言葉。当日は、東北沿岸地域や原発の被災者はじめ、支援者、ご門徒など、約1000人が来場。浄影寺から15人が参加した。

「集い」は3部で構成され、午後1時に幕が開き開会。喚鐘の音で勤行、次いで「もう会えないあなたの声、笑顔を想う」という言葉で始まる『表白』が読み上げられた。

主催者である諏訪敦雄・仙台教区教区会議長の挨拶後、津軽三味線奏者の演奏が始まった。迫力のある津軽三味線の演奏や、東北を代表する民謡の歌声は観客を魅了した。また演奏を挟む形で、宮城・岩手・福島の被災者6人が震災当時の状況や思いについて語った。特に、放射能から幼い子どもを護るために悩み苦しむ女性の言葉に涙する人も多かった。

 最後に歌手の加藤登紀子さんが登場。よく知られる「知床慕情」「百万本のバラ」初め、「命結」「今どこにいますか」などを披露した。

東日本大震災から3年目にあたる2014年5月22日、「3・11 東日本大震災 心に刻む集い〜命結 去・来・現の命を紡ぐ〜」(真宗大谷派仙台教区主催)が、仙台国際センターを会場に開催され、震災の被災者をはじめ、岩手・宮城・福島など、約1000人が来場された。写真はフィナーレ。右から2番目が加藤登紀子さん。

 

   

オープニング。震災犠牲者追弔の「おつとめ」。

宴zールの外に設けられたお買い物広場。仮設住宅の方々や支援者な製作した作品が販売され、多くの来場者が購入していた。

 

 講師に石田宏壽氏をお迎えし、春の法要勤修

  2014年5月11日

春麗らかな5月11日、春の法要が勤修された。この法要は、仏教の開祖・釈尊(お釈迦様)の御誕生会、浄土真宗を開いた親鸞聖人の御誕生、浄影寺前住職・隨惠師の御命日を縁に開かれた法要。本堂正面には誕生仏の花御堂を安置、本堂には五色幔幕、本堂内では御本尊前にある机に打敷が掛けられ、法要用お飾りとして整えられている。

午前10時、喚鐘の合図で勤行、参詣者と共に声高らかに勤められた。勤行後、法話。講師は郡山市・道因寺住職の石田宏壽先生、「やわらかに生きる」と題してお話いただいた。

石田氏は、阿弥陀仏が掲げられた四十八願の中の第三十三願「触光柔軟の願」をあげ、「渋柿も光に当たると甘柿になるように、人間は(仏様の)光に当たると柔らかくなる。そういう願いに生きることが、柔らかに生きるということです」と、語られた。

法話後、護持会総会に続いて、おときがあった。

 

盛大に報恩講厳修

‐講師は、いわき市明賢寺住職の藤内和光氏‐

法要の様子

お話をする講師の藤内氏

秋晴れとなった2013年11月3日、県南の真宗寺院からご住職方10名出仕のもと、報恩講(御満座)を厳修いたしました。

勤行は、正信偈(真四句目下)・念仏和讃(五淘)・回向で進められ、平常とは異なるダイナミックな声明に、本堂は終了後も余韻に包まれていました。続いて、御文「鸞上人」の拝読がありました。

次に、前年に引き続いて、いわき市明賢寺住職の藤内和光氏より、「天命に安んじて人事を尽くす」と題した法話をいただきました。藤内氏は、高齢になって膝の水が溜まることで起る痛みを例に挙げ、「霊能者は七代前の祟りと言うかもしれないが、歳を取れば当たり前だと教えるのが念仏。お念仏は私の立ち位置が変わるという行です」「六根に振り回されて生きるものが凡夫。それが、南無阿弥陀仏を根拠として生きるのが浄土真宗なのです」と語られました。

また、前日の2日には御逮夜が勤まりました。

 

秋季彼岸会法要・物故者追徴法要 勤修

‐東本願寺開基・教如上人を偲んで‐2013年9月23

穏やかに晴れた秋季彼岸の中日の2013年9月23日、「秋季彼岸会法要・物故者追弔法要」を勤修いたしました。この法要は、故人となったご門徒のご苦労を偲びつつ、お念仏の教えを聞く仏事です。

2013年は東本願寺開基の教如承認の400回忌にあたることから、まず、上人のご生涯に学ぶことをテーマに、副住職がお話ししました。続いて、ご本山が制作されたDVD「教如上人物語」を鑑賞しました。

上映されたDVD「教如上人物語」

(東本願寺制作・上映時間35分)

 

春の法要 勤修

‐釈尊誕生会・宗祖誕生会・前住職御命日‐2013512

2013年5月12日、多くのご参詣の中、「春の法要―釈尊誕生会・宗祖親鸞聖人誕生会・前住職御命日―」が勤修されました。法話には、郡山市・道因寺住職の石田宏壽氏をお招きし、震災や原発災害など、混迷する時代にあって、私たちが生きる意味は何かについて、お話をいただきました。

爽やかな天候に恵まれた5月12日、「春の法要」が勤まりました。この法要は、開祖・釈尊の御誕生、宗祖・親鸞聖人の御誕生、そして前住職の御命日を兼ねて勤修された法要です。

午前10時、喚鐘の合図で勤行が開始、『御文』の拝読がありました。続いて法話。昨年に引き続き、郡山市・道因寺住職の石田宏壽氏にご出向いただき、「生きることの大切さ」を講題に、お話をいただきました。

 

仙南組 同朋研修会

〜願勝寺住職講師に開催〜

 

 

2013年4月5日、仙南組主催の同朋研修会が、浄影寺苦庫裡を会場に開催され、仙南組内の住職ならびに門徒会員35人が受講しました。今回は、願勝寺住職の信楽秀道氏が「親鸞の佛教」の講題のもと、お話されました。

氏はまず、講題について触れ、「《の》は所有格ではなく、親鸞が納得した仏教という意味」と述べ、親鸞聖人が頷いた仏教「真宗」と他の仏教との違いを語られました。また聖人が自らを「愚禿」と名乗ったことについて、真宗の法名の特徴に仏弟子を意味する「釈」が付けられていることに触れ、「親鸞の書には「釈」を付けてない箇所がある。それは仏弟子かどうかの課題があるから。名はその人を思い起こす。愚禿と名乗らせた法然との出遇いがある」と語られました。

 

その時代に相応するような形で勤めていく御遠忌

2012114日に報恩講(御満座)、113日に御逮夜を厳修〜

20121104fujiuti IMG_2890

藤内和光 先生

20121104gongyou IMG_2865

県南の真宗寺院から10人のご法中(ほっちゅう)によって声高らかに勤められる法要

114

 秋晴れの穏やかな天気となった114日、報恩講(御満座)が厳修されました。報恩講とは、宗祖親鸞聖人の御恩に感謝し、真宗門徒であることを自覚する御仏事で、私たち真宗門徒にとって一年で最も重い法要。当浄影寺では、毎年第1日曜日に営まれています。

 当日は、立燭・燃香の準備が整い、午前10時、喚鐘の合図で、仙南地区など九カ寺のご住職らが法中(ほっちゅう)として出仕され、勤行が始まりました。報恩講のお勤めは「正信偈」真四句目下・五淘とあって、平常の節とは異なるダイナミックなもの。参詣されたご門徒も声を高らかに勤められ、本堂内は声明(しょうみょう)が響き渡りました。続いて、勤行の余韻が残る中、『御俗鈔』の拝読がありました。『御俗鈔』は本願寺第八代の蓮如上人が親鸞聖人のご生涯について書かれたお手紙。重々しく拝読されるのを静かに聞きながら、参詣者は銘銘、親鸞聖人のご恩徳を感じていました。

 勤行後、いわき市・明賢寺住職の藤内和光氏より、「後生の一大事」と題して法話をいただきました。藤内氏は、まず2011311日に発生した東日本大震災に伴い、本山が3から5月に三回にわけて勤められる予定だった七百五十回御遠忌で、3月の御遠忌法要を中止し「被災者支援のつどい」が勤められたことに触れ、「50年ごとに御遠忌を勤めてきたその伝統を中止してまでも被災者に寄り添うという視点は評価できます。引き継いできた精神を引き継いで、その中で、その時代時代に相応するような形で勤めていくのが伝統です」と述べられました。そして「この世は浄土でも地獄でもないが、私たちは地獄を作り、この世を地獄としてしか生きていない。その基になるのが分別心。思い通りにならない世界が娑婆だが、このことが決着できれば、悠々と生きていくことができるのです」と、浄土の世界について、熱っぽく語られました。

 法話後、参詣者は庫裡に移動、婦人部が腕を振るったお斎(おとき・料理)に舌鼓を打ちました。

 また前日3日の午後2時から御逮夜が勤められました。

 

秋季彼岸会法要ならびに門徒物故者追弔法要を勤修

〜震災下でお迎えした御遠忌の意味を感じる彼岸〜2012923

2012923日、秋季彼岸会法要ならびに門徒物故者追弔法要が勤修されました。この法要は、彼岸会法要にあわせて、ご門徒物故者を追弔する法要として営まれているもの。

当日は、午後2時から勤行・「御文」。その後、副住職のお話と上映を行いました。上映では、御本山・東本願寺(京都市)が制作されたDVD2011年 映像で振り返る 宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌』に収録されているものの中から、「映像記録 宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌」と「東日本大震災から問われるもの」を観覧しました。

当院では、御本山で20113月から5月に宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要が厳修されることから、その第一期法要にあたる3月下旬に参拝旅行を計画し準備をしてきましたが、同年311日に発生した東日本大震災にともない、法要への参拝を中止せざるをえませんでした。参拝できなかったご門徒それぞれに御遠忌に思いを寄せていたので、DVDの観覧によって、改めて、震災下でお迎えした御遠忌の意味を感じる彼岸となりました。

 

春の法要 勤修‐釈尊誕生会・宗祖誕生会・前住職御命日‐

〜「震災後をどう生きるか」〜        2012,5,13

20120813ishidaIMG_2643

石田宏壽先生

20120813harunohouyouIMG_2637

法要の様子

2012513日、多くのご参詣の中、「春の法要―釈尊誕生会・宗祖親鸞聖人誕生会・前住職御命日―」が勤修されました。法話には、郡山市・道因寺住職の石田宏壽氏をお招きし、大震災後、私たちはどのように生きればよいのかについて、お話をいただきました。この法要は、開祖・釈尊の御誕生、宗祖・親鸞聖人の御誕生、そして前住職の御命日を兼ねて勤修された法要です。

 午前10時、喚鐘の合図で勤行が開始、『御文』の拝読がありました。続いて、郡山市・道因寺住職の石田宏壽氏に「震災後をどう生きるか」を講題に法話を頂きました。石田氏は『方丈記』にある大地震記録に触れながら今回の津波被害・原発災害から学んだことを述べられ、「動乱や混乱の世は、新しいものが生み出される分岐点」「人間はみんな根っ子に穏やかに生きることを願っている」と語られました。

 

彼岸会法要・門徒物故者追弔法要勤修〜大地に生きる〜

2011,9,23

 さる923日、秋晴れの中、彼岸会法要・門徒物故者追弔法要が勤修されました。この法要は、物故者となられたご門徒を追弔する法要で、特に、年回忌にあたるご遺族にお参りいただいております。今年は、東日本大震災に伴う津波の犠牲となられた方のご遺族も参詣されました。法要では、午後2時から勤行・御文拝読。続いて法話が勤まりました。

 法話では、「大地に生きる」と題して副住職がお話しました。法話の中で副住職は「このたびの大震災は、私たちの何を奪ってしまったのか。私という人間がこれまで生きてきたこと、その全体が問われているのです」と問題を提起、「人間は大地から生まれ、大地に立って生き、寿命尽きれば大地に還っていく存在。国土を失ったとしても、大地そのものは失われていないのではないか。今、現に生きている、この「いのち」そのものの中に人間を回復させていくような大地がある」と、人間の心の復興について語られました。

 

M9 東日本大震災 発生‐大津波被害と原発震災‐

2011,8,6

2011311日、午後246分、宮城県沖をはじめ東日本沿岸地域全体を震源とするマグニチュード9の巨大地震は、最大震度7強の揺れを観測し、場所によって20mもの高さの大津波が発生、東北から関東の沿岸地域を飲み込んだ。また、東京電力福島第1原子力発電所で水素爆発が起き、多量の放射性物質を放出、いまだ収束の見通しがつかない。

死者・行方不明者を合わせ20,631人(81日現在、警察庁発表)という未曾有の大震災から5ヵ月余り、復旧・復興が進む一方で、沿岸地域では、死亡されたご住職やご門徒がいる他、安否不明者の捜索は今も難航を極め、避難生活を余儀なくされている方々がいる状況である。

門徒宅(山元町)津波被害 -一部損壊のご門徒宅も-

山元町

宮城県・山元町

 311、午後246分。今までに経験したことがない大きく長い揺れが続きました。地盤改良した地に建つ本堂も、ミシミシと音を立てて揺れ、境内の墓石が上下に大きく動いていました。その3日後、ご門徒の安否と被害確認のため、住職と副住職が地区門徒役員を訪ね確認、後日、本山の事務所・仙台教務所へ報告いたしました。蔵王町内のご門徒宅では瓦屋根の破損の住宅が多いほか、宅地の盛土が地すべりを起こしたお宅もありましたが、負傷者はいなかったもようです。一方、町外では山元町のご門徒宅一軒が津波によって全壊し、現在、避難されています。4月、総代会ならびに役員会にご門徒の被害状況を報告・検討し、住宅が全壊となったご門徒に対して見舞金を送ることとなりました。後日、住職と副住職が見舞金と三折本尊(仏具一式)をお届けさせていただきました。

原発震災 東京電力福島原発 広まる放射能汚染の恐怖と不安

311日に起った巨大地震は、大津波被害を齎しただけではありませんでした。「夢のエネルギー」「安全」を標榜してきた原子力発電所が爆発しました。

事故があったのは福島県浪江町にある東京電力福島第1原子力発電所で、原子炉建屋が水素爆発。その直後から大量の放射性物質が放出しているにも関わらず、東京電力や経済産業省保安院、そして政府は予想される放射能汚染の情報を事実上隠蔽、「安全デマ」を流し続け、福島県民、特に、子どもたちがヨウ素やセシウムなど大量の放射能を浴びてしまいました。命を守る責務を負う政府は、結果、命を脅かすという重大な過ちを犯したのです。電力会社も政府も組織的責任の回避と保身が安全を担保し避難誘導を遅らせ、結果、事故を小さく見せようとしていたことが明らかになってきました。

爆発当初から一部、研究者などの間では、地震直後に全電源喪失、原子炉内の炉心が溶融(メルトダウン)し、溶けた高温の燃料棒が原子炉を突き破っていると指摘していました。しかし、多くの大手新聞社やテレビは無視し、報道したのは、なんと、2ヶ月以上も経ってからでした。しかも、電力会社の会見を受けてです。

放射性物質を放出し、収束の見通しが立っていない今、私たちは、できうる限り情報を収集し、そして的確に分析する眼を持たなくてはならないと思います。

今後、放射能汚染を前提として生活しなくてはならない以上、外部被曝と同時に、汚染食物の摂取により生じる内部被曝をどれだけ低くしていくかが大切です。

放射能汚染による癌や白血病のリスクから子どもたちを守らなくてはなりません。

 

春の法要・東日本大震災犠牲者追弔会勤修

2011,8,6

58日、春の法要を勤修しました。例年、釈尊と親鸞聖人のご誕生を祝う色彩が強い仏事ですが、このたびの震災を鑑み、震災で犠牲となられた方々に思いを致す法要としました。当日は勤行後、会津若松市の武藤淳一先生にご法話をいただきました。

 

3・11東日本大震災から4ヵ月

大津波被災地の「今」を訪ねて

〜陸前高田市・大船渡市・三陸町〜陸町〜

2011,6,20

2011311日、午後246分、宮城県沖を震源とするマグニチュード9の巨大地震は、場所によっては30mもの高さの大津波を発生させ、東北から関東にかけて、東日本の広域に渡って沿岸地域を飲み込んだ。

死者・行方不明者を合わせ23,355人(613日現在、警察庁まとめ)という未曾有の大震災から3ヵ月余り、復旧・復興が進む一方で、行方不明者の捜索は今も難航を極めている。当教区においても、岩手・宮城・福島の沿岸地域では、いまだ、安否がわからないご住職やご門徒もいる他、避難所生活を余儀なくされている方々がいる。

震災当日、一体、何が起こったのか。今回、仙台教区(岩手・宮城・福島)で津波被害の大きかった地域の一つ、気仙組の陸前高田市・大船渡市・三陸町を訪ねた。

 

◇凄惨な現実に喪失感と祈り

62日、霧雨。私は仙台教区報「取材班」として取材地に向かう。陸前高田市に入って間もないパーキングで、今回、案内をお願いした人物と落ち合う。気仙組の正源寺住職・掛川玄淳氏だ。掛川氏は大津波の被害を受けた三陸町出身。現在、気仙組の副組長でもある。それだけに、今回の大津波によって、同じ組のご住職が行方不明となり、坊守さんが亡くなったことの衝撃は大きく、辛さ・悲しみを想像するに難くない。

20110602@gareki-Img_2433

 車を走らせること5分。陸前高田市街地からまだ郊外であるはずの山あいの田畑には、漂流物のようなものがそちらこちらにあった。そして、山あいを抜けると、周囲の景色が、突如、一変する。見渡せば、瓦礫と化した大量の残骸の山が点々。そのほとんどが、津波で押し流され破壊された家屋や車、工場の機械など、人々の生活が多く詰まったものだ。人々の生活の基盤を根底から奪い破壊しつくしたこの光景は、震災報道される写真と比べものにならないくらい、物凄い勢いで迫ってくる。しかし、この凄惨な状況を「現実」の出来事として受け取るには、あまりも残酷だ。この悲し過ぎる現実を前に、何もできないことへの喪失感と、ただ祈ることしかないという心が交錯し、気がつけば、沈黙の中にあって、込み上げてくる涙を抑える手立てすら見つからない。

 私たちが訪れたのは、大震災から3ヵ月弱とあって、復興作業やボランティアの移動に必要な車が通れるだけの道路は、ある程度、確保されていた。が、交通整理をする信号機はなく、路面には汚泥が混じっていた。その両脇には大量の残骸が山のように積まれている。

 

◇本稱寺を襲った20mの大津波

 「ここで車を停めます」と掛川氏。本稱寺さんがあった場所に到着する。大津波の襲来を受け、今は、本堂と庫裡は跡形もない。ただ本堂の基礎と山門の石段が残っているだけである。「いつも、この石段を昇って、本稱寺に入っていました」。歴史を感じさせる静かな佇まいであった本堂に、境内。そんな記憶とは全く異なる景色に、私は言葉を失った。

20110602Ahonshoujiphot-Img_2420 20110602Bhonshoujimonchuphoto-Img_2424

本稱寺跡、炎「礫の中にあった門柱

「オレンジの重機が動いている、あの辺で庫裡の2階部分が見つかりました。そして、息子さんの隆道さんは、その庫裡から押し出されて、泳ぎながら流されながら辿り着いて助かったんです」。

陸前高田市は人口23,000人の都市。その多くの人が日本百景に指定されている景勝地・高田松原海岸からほど近い市街地に居住している。この本稱寺さんも、海岸から、直線にしてわずか約1.4kmの近さだとは、この時まで、私はあまり意識することはなかった。しかし、家屋やビルの多くが津波によって流され、視界を遮るものがなくなった今、本稱寺さんがあった場所から海岸が見えることを知ったのである。この陸前高田市を、約20mもの高さの大津波が一瞬にして飲み込み、悉く破壊し尽くした。

 

◇津波直前、本堂にいたご住職

今回の津波によって、無念ながら本稱寺の坊守さんと若坊守さんが犠牲となられた。そして、ご住職の佐々木廣道さんは、いまだ行方不明である。加えて、ご本尊もまだ発見されていない。

「ご住職は本堂にいたと言うんです。多分、ご本尊だけでも助けなきゃ、持って逃げなきゃということで、津波が来たとき本堂に行って、ご本尊を持ち出そうとしていたのかなと想像するんです。ご本尊も住職も出てこないから…。もしかすると、ご住職がご本尊を抱えている可能性があります」と掛川氏。

これまで人一倍、寺院の教化活動や社会活動に力を尽くしてきたご住職だけに、ご門徒や地域住民からの信頼も篤い。この話を伺ったとき、ただただ、ご住職に手を合わせるしかなかった。「一応、目視での捜索は終わったのですが、重機で片づけながら、何か出てきたら作業を止めて、という形でしょうね。高田松原海岸の砂が入ってきたので、陸前高田は土に埋まっているものが、結構、多いと思います。いまだに、たくさんの人が見つかっていません。発見された遺体がDNA判定されても、余程の特徴がない限りは、結果が来年になるようです」。

 

◇時間が311日で止まった

本稱寺さんの周辺を歩くと、押し潰され原形を留めない車、大きく歪められた建物の鉄筋や粉々になったコンクリートの塊、その中に、「真宗大谷派 本稱寺」と彫られた門柱を発見した。かつて、参道の入口にあった門柱が他の残骸と共に置かれている。そして、今一度、本稱寺跡に行ってみると、そこには赤いランドセルとアルバムがあったことに気がついた。恐らく、津波によってどこからか流れ着いたものだろうか。アルバムの写真には、湯船に入って悦ぶ乳児や、祖母と撮る幼児の姿など、穏やかに流れる生活の場面が記録されていた。その日常の時間が、311日を境に止まってしまった。

20110602Carubamu-Img_2429

津波で流れ着いたアルバム

 

◇高田松原の「一本松」

本稱寺さんを後にして、かつて、風光明媚だった高田松原海岸が見える場所に車を走らせてみる。無惨になった防潮堤を見て、津波の破壊力の凄まじさに私は絶句した。砂浜と防潮林と市街地を守る大きな防潮堤があったことを記憶していたからだ。さらに驚いたのは、地盤が大きく下がって、海岸線が市街地側にかなり入りこんでいることだった。

「チリ地震の津波の時も、昭和8年の三陸の大津波の時も、高田松原は流されるということはなかった。松原もあるし防潮堤もあるし、と思っていたんじゃないかな」。地震発生から津波が到着するまでの時間があっても逃げられなかった人々が多かったそうだ。

「ここは、地盤が下がっているので、波が来ないように石を積んでいます。あれは球場だけど、海に浮かぶ球場になっている。防潮堤が流され松原もないし、砂浜なのか何なのか、分からなくなった」と、物思いに耽りながら話す掛川氏。実は、この近くには、掛川氏が高校時分に通った母校があったが、津波が直撃し被害を受けていたのだ。

高田松原海岸を見渡すと、ふと一本の松が目に留まった。防潮林の松が津波によって、そのほとんどが流されている中にあって、耐え抜いた、ただ唯一の「一本松」だ。高田松原市では復興の象徴として残そうと養生作業をしているそうだ。

 

◇記憶された、かつての街並み

大船渡市へ向かう車の中で、「ここがローソン。この角がパチンコ屋さん。ここにモスバーガーがあったんだ…」。案内をしている掛川氏の眼には、震災前の街並みが克明に記憶されている。生活を根底から奪い去ってしまった大津波。しかし、漁師さんたちのほとんどは、海に対する恨みを口にしない。むしろ、また浜に住み、漁をしたいという気持ちが強いのだという。それは、新鮮な魚介類が獲れる三陸の豊かな海は、漁師さんの生活そのものだからだ。

三陸町越喜来に入ったあたりで車を停める。見渡すと、ここでも、更地と化した所々に津波で破壊された木造家屋の残骸が大量に山積みになっている。その中で、鉄筋造りの建物だけがいくつか辛うじて残っている。その一つが大船渡市役所三陸支所。掛川氏は地震発生から1時間ほど前まで、この3階建ての役所の2階にいたという。「車を停めて、ここの2階で用足しをしていたので、帰りがもうちょっと遅かったら、車が流されていました。この地域は、津波が真正面から来たんです」。支所を見ると、津波が水の塊となって、建物の中を突き抜けていったような感じだ。この破壊力は、巨大な防潮堤にもその爪痕を生々しく残している。

 

◇津波襲来で何があったのか

「この防波堤の傷を見て下さい。津波でいろんなものが流されて付いた傷です。水門が一枚、ありましたが、津波に向こうの船着場の方に流されています。津波は、集落を守る4mほどの防潮堤を越えてきました」。

津波発生時、掛川氏は高台にある自坊の境内から、襲来する津波の一部始終を見ていたという。

I20110502Dsakihama-Img_2452

高台から見下ろす崎浜漁港

「津波を見ておかなきゃというものもありました。津波が来る前、海の底がハッキリ見えました。俺はここで見ているから、「津波だ、逃げろ、って言ってこい」と嫁さんに言いました」。津波によって転覆する大きな漁船や、街が飲み込まれていく状況に何もできなかったと、切々と語られた。

「この集落で10人くらい亡くなっています。そして、まだ6人が見つかっていません」。亡くなった人の中には、地元の消防団員だった掛川氏の知人も含まれている。水門を閉め、避難誘導をしている中で、前と後ろから来た津波に挟まれて流されたという。「俺の一つ先輩で、地元でずっと少年野球を教えてくれていた人だった。翌日、ここのテトラポットのところで見つかった。311日から時間が止まっているような感じがして、いまだに、ボーっとする時があるんです」。

あの大震災から3ヵ月経った今、案内をしながら掛川氏は、かつて生活をしていた集落の人々の姿を語ってくれる。「プレハブが建っているあたりが商店だった。その商店のおじいちゃんとおばあちゃんも行方不明です。ここに何があって、ここは誰々さん家だよと言っておかないと忘れてしまいそうだもんね」。震災そして津波は、そこに暮らす人々の何を奪ったのか。掛川氏の姿には、そんな生活の記憶を辿りながら、自問自答しているように見えた。

 

◇一歩ずつ前へ 崎浜!

そして、礼を言って帰ろうとするとき、「防潮堤に子どもたちが作った看板があるんで写真を撮って下さい」と掛川氏。そこに掲げられていたのは、鮮やかな色で書かれた「1歩ずつ前へ 崎浜!」という看板だった。津波の被災地を訪ね、想像を絶する惨状に言葉を失った私たちが、最後に出あった子どもたちの言葉に、むしろ、励まされているとは。震災が齎した悲しみは辛過ぎて、中々、癒えるものではないが、この子どもたちのメッセージには、何か、悲しみを希望に変えていくような、そんな光を感じた。

20110602Ekanban-Img_2454

子どもたちが書いた看板「一歩ずつ前へ 崎浜!」

今も、津波によって生活基盤を失い、雇用を奪われた多くの方々が不自由な避難所や仮設住宅の暮らしを余儀なくされている。そのような被災地域の復旧・復興の道のりは長い。世界からの支援の輪が広がっている今、私たちも、復旧・復興に向けて、共に、一歩ずつ前へ向かって歩いていきたいと思う。そして、大震災に遭遇した厳しい現実の真っ只中で親鸞聖人の教法を聞き続けていくことが、もう一つの復興、すなわち、人間精神の復興に繋がるものと思うのである。そのことにおいて、改めて、私たちが「宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌」をお迎えすることの意味も確かめられていくに違いない。(H)

 

 

心新たに「正信偈」を唱和〜元旦・修正会〜

参詣者へお屠蘇・甘酒を振る舞い、新年を祝う-201111-

 201111日、新年初の仏事「修正会」(しゅしょうえ)が勤まりました。当日は、昨年末に降り積もった雪で覆われた境内に、ひときわ寒い日となりましたが、鏡餅で荘厳された本堂で、定刻の午前10時から法要が勤まりました。初詣と言えば、世間では神社へ詣で願をかけることが一般的になっている中、浄影寺では、仏様の願いに耳を済ませ、念仏者として生きていく心を新たにしていただきたいと、「初詣は菩提寺である浄影寺へ」をキャッチフレーズに呼び掛けをしてきました。

 勤行後、参詣者は、腕輪念珠や冊子などの記念品を受け取り、庫裡に移動。お屠蘇と甘酒の接待を受けました。一年に一度、振舞われる甘酒は、今や浄影寺の名物ともなり、凍えた身体を温まると好評でした。 

 

親鸞聖人のご恩を感謝する報恩講厳修

今、いのちがあなたを生きている〜いのち・寿・命〜201011月6・7日)

20101107houonkou3Img_2214  20101107houonkou2Img_2203

▲お荘厳(クリックすると写真が大きくなります)  ▲勤行の様子        ▲法話の様子

秋晴れとなった11月6日・7日、報恩講が当・浄影寺で厳修されました。前日までに本堂ならびに境内の清掃をし、お磨き(仏具を磨くこと)、立華でお荘厳を整えて6日を迎えました。午前中は婦人部の皆さんが集合、7日(御満座)の「おとき」(精進料理)の下拵えをして下さいました。食事会場の準備を終え、午後2時から御逮夜を勤め、勤行・御文拝読後、副住職が「人として生まれるということ」という講題のもと法話を致しました。

7日・御満座の日。住職の挨拶後、10時、県南地域の当派と本願寺派の住職9名が出仕、住職導師のもと、「正信偈」が声高らかに勤められました。勤行の余韻が本堂にある中、『御俗鈔』が拝読されました。『御俗鈔』は親鸞聖人のご生涯を蓮如上人が手紙形式で書かれたもの、ご門徒と共に、聖人のご苦労を偲びました。

法要後、会津若松市・正教寺住職の諏訪敦雄先生から「今、いのちがあなたを生きている〜いのち・寿・命〜」と題するご法話をいただきました。「家の中が暗いのは善人しかいないからです。自分が善人になると回りは全て悪人になるということ。だから、やることなすことに不平を言ってしまうのです」と語られる先生のお話を、ご門徒は熱心に聴いておられました。法話終了後、会場を庫裡に移して、季節の野菜を利用した「おとき」に舌鼓を打ちました。

 

彼岸会法要・物故者追弔法要が勤まりました

〜秋季彼岸会法要・門徒物故者追弔法要〜(2010年9月23日)

20100923higane  20100923higane2

 勤行の様子               塩@話をする住職

前日まで降った雨も上がったものの、猛暑の夏から一転して冷え込んだ9月23日、秋季彼岸会法要・門徒物故者法要が勤まりました。この法要は、当院の護持にご尽力されて亡くなれたご門徒を追弔する法会として勤められているものです。特に、年回忌に当たる方々が多く参詣されます。

この日は、午後1時40分に参詣者が持参された過去帳を正面に安置して立燭。住職が挨拶を行ないました。午後2時の喚鐘の合図で法要が開始され、参詣者と声高らかに「正信偈」を勤め、続いて「御文」拝読。休憩を挟んで当院住職が「今を生きる」と題して法話をしました。

 

「春の法要」が勤まりました

〜釈尊御誕生会・宗祖御誕生会・前住職御命日〜(2010年5月9日)

  

法話中の諏訪師            塩@話の様子

さる5月9日、境内が満開を過ぎた桜の花吹雪となる中、「春の法要」が勤まりました。この法要は、仏教の始祖である釈尊の御誕生(4月8日)・宗祖親鸞聖人の御誕生(4月1日)、そして当院の前住職御命日(6月3日)をご縁として勤められる法要です。本堂内正面には水引きと打敷がかけられた机、本堂を覆う五色幔幕、正面入口には釈尊誕生仏を安置した「花御堂」…一目で春の法要と解る荘厳な「お飾り」で参詣者をお迎えできました。また、法要後におもてなしをするお斎(おとき・食事)はご門徒の方々からいただいた竹の子やフキなどの春野菜を調理した精進料理に、薬用茶として知られる甘茶を準備、参詣者にご好評をいただいています。

当日は、9時45分に住職挨拶、法要の開始を知らせる喚鐘に合図によって、10時から勤行が始まりました。勤行は「正信偈」とあって、参詣者も声高らかに勤め、本堂内に響き渡りました。勤行・「御文」拝読の後、法話がありました。今回の法話は、会津若松市・正教寺住職の諏訪敦雄先生にご出向いただき、「前(さき)に生まれん者(ひと)は、後(のち)を導き…‐私たちにとって先祖とは‐」という講題のもと一時間、お話を頂きました。

法要後、引き続いて護持会総会が開催され、旧年度決算・新年度予算の報告と審議、並びに新年度事業についてご案内がありました。

 

御遠忌参拝例会(第2回)を開催

〜宗祖として親鸞聖人に出遇う〜(2009年11月20日)

ご案内のように、仙南地区六ヵ寺で構成する仙南組では、2011年3月に本山・東本願寺(京都市)で厳修される宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要へ参拝するための準備を進めているところです。当浄影寺では毎月20日を例会日と定め、教団テーマ「宗祖としての親鸞聖人に出遇う」に添いながら、「親鸞聖人のご生涯に学ぶ」「おつとめの練習」「お内仏のお給仕」を柱に勉強会をすることとなりました。加えて、参加者相互の親睦も目的としています。

今回はその2回目。当日は、午後2時から例会の趣旨・基本日程を説明しおつとめの練習。開会宣言の後、勤行、住職の挨拶がありました。続いて、副住職が「おはなし」(法話)が行ないました。「おはなし」は、東本願寺刊『宗祖親鸞聖人』を基本テキストに親鸞聖人のご生涯をお訪ねするというもの。その中で副住職は、「親鸞聖人のご生涯は、一体、この私にとってどのような意味があるのでしょうか」と問題を投げかけられ、「現在ただ今、現に私の人生に用(はたら)き続けてくださっている、まさしく、現在の人」として学んでいきたいと締めくくられました。

法話終了後、本堂内にあるストーブを囲んで、お茶を飲みながら談笑し、親睦を深めあいました。

 

「報恩講」厳修しました(2009年10月31日〜11月1日)

―御逮夜に御遠忌参拝例会・御満座では9人の僧侶が声高らかに勤行―

20091101sekiguti-shiIMG_1871 I20091101sankeishaMG_1869  20091031fujinbuIMG_1849

法話をする講師の関口氏(11/1)      仏具のお磨き(10/27   おときの準備(10/31

秋晴れの穏やかな天候に恵まれた11月1日、報恩講(御満座)が厳修されました。午前10時、9人の法中(僧侶)の声高らかに勤行、参詣者も唱和しました。続いて、本堂内に余韻を残しつつ、御文が拝読されました。その後、仙台市・徳泉寺住職の関口秀和師から「自分を生きる」と題して法話をいただきました。法話の中で関口師は、私たちのあり方について、外に目を向け、自分の都合や思いで神頼みし物事を解決しようとしていると指摘した上で、「仏教は内道。様々なことは私との関わりにおいて起こっています。私の内に目を向け、幸せを求めるのではなく、幸せになっていく力をいただくのです」と語られました。

また御満座の前日10月31日の午後2時から御逮夜が勤まりました。今回の御逮夜は、2011年に本山・東本願寺で勤まる「御遠忌法要」へ参詣される方の例会も兼ねたことから、「私にとって真宗とは」というテーマで副住職がお話をしました。

当院の報恩講は、真鍮(しんちゅう)製の仏具を磨き、本堂内や境内の清掃から始まります。特に仏具磨きは蝋燭の炎や線香の煙などで煤けた仏具に磨き粉を付け、力を込めて磨き、仕上げにから拭きをします。するとどうでしょう。眩(まばゆ)いばかりの輝きが戻ってくるのです。そして、おときの準備。おときは参詣者におもてなしをする料理、浄影寺の味をご門徒の婦人部の皆さんに作っていただいています。材料の吟味、下ごしらえ、当時の盛り付け…、どれも婦人部の皆さんが守り伝えてくださったものです。参詣者は炊き立ての新米とあわせ、舌鼓を打っていました。

 

死と向き合う

―秋季彼岸会法要・門徒物故者追弔法要、勤修―(2009年9月23日)

 9月23日、秋季彼岸会法要・門徒物故者追弔法要を勤修しました。当日は、午後2時から勤行・御文を拝読し、続いて「死と向き合う」をテーマに、映画「おくりびと」の鑑賞をしました。それに先立って、副住職が主演者や青木新門著『納棺夫日記』の言葉を紹介し、また新聞の社説にある「死は命の一部であること、死に軽重がない」という文章を通して、仏教の死生観について話をしました。参詣者には3回も観られた方、映画館に行けなかった方もあり、それぞれに感動のシーンや死について述べあっていました。

 

「春の法要」勤修〜感覚を呼び覚まそう〜

―釈尊誕生会・宗祖親鸞聖人誕生会・前住職御命日―2009510日)

20090509「春の法要」IMG_1711  20090509「春の法要」AIMG_1707

法話をする武藤先生

 桜花咲き誇る2009年5月10日、「春の法要」が勤修されました。この法要は、仏教の開祖・釈尊の御誕生・浄土真宗を開かれた宗祖親鸞聖人の御誕生・そして浄影寺を当地で開かれた前住職の御命日を縁として毎年5月の第2日曜日に勤修されています。

 境内正面にある二本の桜木の下を通って本堂へ。本堂玄関中央に設置された花御堂には、中に安置されている釈尊の誕生仏に甘茶を注ぐ…。10時、喚鐘の音で法要開始、住職の発声に導かれながらご門徒全員で「正信偈」を勤行しました。その後、法話。

 今回の法話は、会津若松市・正蓮寺住職の武藤淳一先生が「感覚を呼び覚まそう-主体的に生きるとは-」という講題のもとお話をされました。法話の中で武藤先生は、誕生という言葉の意味について触れられ、「何にも分からない状態で生まれる、それが誕ということです。生まれたばかりの赤ちゃんはまだ人間とは呼べない。但し、唯一、人間になる可能性を持った人という生き物に生まれたということです。ですから、そこに教えがどうしてもなくてはならない」と、私たちが誕生したのは「人間」になるためであると語られました。

 

 

 

---

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

テキスト ボックス: 過去の主なニュース

 

「あなたはあなたでいいんだよ」

-秋季彼岸会法要並びに門徒物故者追弔法要勤修-2008,9,23

2008

法話の様子

 9月23日、秋季彼岸会法要並びに門徒物故者追弔法要が勤修されました。この法要は毎年、秋の彼岸中日に行われているもので、物故者となられた当院のご門徒を偲びつつ、親鸞聖人の教えを聞く集いです。

 当日は午後2時から勤行。引き続いて、当院の衆徒・釋尼浄教が「生きるということ」と題して法話を致しました。法話の中で氏は、命の根拠を訪ねつつ、「生まれてきたということは、この地球の上にあなたの場所を空けて待っていたんだよということ。そして、命への優しさとは、「あなたはあなたでいいんだよ」という言えるとき」と話されました。

 

新年を迎えて-修正会‐2008,1,1

shushoue2008

修正会で「御文」を拝読

 修正会が2008年1月1日に勤修されました。これは毎年元日、年初めにあたり、心新たに真宗門徒としての生活を送ることをご本尊の前で誓う仏事です。

 当日は本堂で午前10時に勤行・御文拝読、その後、参詣者に記念品を贈呈しました。法要後、庫裡では甘酒とお屠蘇の接待を受け、共々に新年を祝いました。

 

報恩講、盛大に厳修2007,11,34

−期間中、写真展「浄影寺の歴史と現在」を開催−2008年5月末まで展示

houonkou-houwa2007IMG_1260

報恩講法話

houonkou-tenji2007IMG_1223

浄影寺写真展

 報恩講が113日、4日に厳修されました。御逮夜の3日は午後2時半から勤行、続いて「御俗鈔」が拝読されました。その後、今回開催した写真展「浄影寺の歴史と現在」について副住職がお話しました。展示している写真は、仙台市にあって荒廃していた浄影寺を再興するため、前住職の隨惠師が当地へ寺地移転した当時の史料を写真にしたものや、隨惠師の活動を示すもの、また、本堂の建設工事から落慶法要までの写真、そして本堂の魅力を引き出したスナップ写真など、100点もの展示しました。貴重な写真や史料の展示に参詣者の中に懐かしむ人もいたり、文字資料を読んだりと、お寺の歴史に関心を寄せていました。

 御満座の4日は午前10時に法要が開始され、8人の僧侶によって声高らかに「正信偈」が勤められました。勤行後、いわき市・明賢寺住職の藤内和光氏より、「親鸞聖人のお仕事」と題して法話をいただきました。本堂のお荘厳(かざり)について藤内氏は「真実が我々の前に近づき、形のないものが形となった、阿弥陀仏のご本願が我々に目覚めなさいということを伝えるために方便という形を持つ。つまり、教えを伝えるためにお荘厳があるのです」と語られました。

 ※浄影寺写真展は20085月末まで開催しています。

 

浄影寺のパンフレットができました(2007,7,4

panf-omote

沿革や年間行事などを掲載

 

クリックすると大きな画像で見ることができます。

浄影寺や親鸞聖人のご生涯を写真と文で紹介

本堂が完成して以来、遠刈田温泉への旅行客がたびたび参詣くださっています。お聞きしますと「大屋根が見えたので・・・」「散策していて寄ってみました」「パンフレットをいただきたい」という声をいただきました。そこで、簡単なパンフレット(A4版三つ折カラー版・白黒版)を作成してみました。当院の沿革・年間行事、施設や法宝物など写真を使って分かりやすく紹介しています。ぜひ、お手にとってご覧ください。(※写真をクリックすると大きな画像で見ることができます)

 

大理石 (白)‐浄影寺はこんなところです-


★クリックしてください★