HOUZOU

真宗大谷派 浄影寺


 

 

巻頭言(メッセージ)バックナンバー

 

INDEX

 

■2018年3月18ルリソウからの風〜若者たちへ送る言葉-新しい道を歩むために〜

■2018年3月18日、良く、生きる-生きている中身を心掛けたい-

2017813日、ルリソウからの風〜人間への信頼感欠如の学校現場〜

■2017年8月13日、いのちとは、時間を誰かの為に使うこと

2017318日、個人を護るのは情報公開と言論を規定している憲法-映画「抹殺された知事」を観て-

■2016年8月13日、尊厳を軽んずる「空気」に警鐘を-相模原・障がい者殺傷事件を考える

■2016年3月18日、今、戦争で犠牲となった人たちの声の前に立つ

〜「無三悪趣」「兵戈無用」「命どぅ宝」〜

■2016年1月1日、人、いずくんぞ鬼神につかえんか

■2015年8月13日、戦争に繋がる法案に反対〜親鸞教徒として〜

■2015年3月18日、価値観の異なる他者を友とするのが「同朋」〜親鸞の世界観〜

■2014年8月13日、灰色の世界を作らない為に〜思考の欠如を超えて〜

■2014年3月18日、「東北」という個性を、見つめ直す「時」

■2014年1月1日、東日本大震災から2年9か月-原発災害の教訓の一つ〜情報は隠蔽されるということ〜

2013年9月1日、美しく、力強く、したたかに〜高山植物の宝庫・宮城蔵王〜

■2013年3月11日、震災の思想〜被災者の《語り》、人類の記憶に〜

■2012年8月8日、時代の目撃者であり、当事者〜 「一人ひとり注意深い市民」が脱原発の声を挙げはじめた

■2012年3月27日、生き方・価値観の転換への岐路〜原発は「いのち」の問題・人間性の問題〜

201215日、寒中お見舞い申し上げます

■2011年8月6日、被災地・汚染された大地を生きる もう、悲しい出来事を繰り返してはならない 〜原発震災

■2011年4月25日、深い悲しみと沈黙と祈りと〜東日本大震災から復興に向けて〜

■2010年11月14日、仏教の提言「衆生」が地球環境を救う視座になる

〜横(大自然)と縦(歴史)の繋がりによって成り立つ「いのち」〜

■2010年4月10日、「あなたにとって本当の他者になり、存在の『場』になりましょう」 他者との関係が寸断・孤立し、存在に必要な「場」を失う -自殺問題-

■2010年1月1日「私たちの意識が変っていくような取り組みが求められている時代」-人間性への覚醒を求めていく願いと、その願いに生きる人々の世界観-

2009年10月10日「偏狭な世界を破っていく視点」-新型インフルエンザへの動きから見えてきたこと-

■2009年4月25日 「今、求められていること」-真に自分の存在を根底から成り立たしめている「もの」を探すこと-

■2009年1月5「人間存在の根本が問われている」

2008年9月16「米粒一つ一つに菩薩様がおられる」

■2008年6月13日 人間に絶望しない−秋葉原で起こった無差別殺傷事件を受けて−

200835日 「私たちが目を背けているところに本質がある」

200811日 2000年を迎えて−すべてを相対化し批判する眼をもつことから始まる−

2007927日 「倒木更新」

2007211日 あなたが大切だ

20061118日<ひと>を殺めてはならない

2006725日 HP「法蔵」開設にあたって

 

2018318日、コラム

ルリソウからの風

〜若者たちへ送る言葉-新しい道を歩むために〜

2月の時折見せた積雪が嘘のように、3月は春の陽気漂う月となった。学生にとって、この時期は忙しく季節を感じる暇などない。私は、街で見かけた若者にエールを送った。

人間の評価は むずかしい
なぜなら  人間には
さまざまな能力や個性があるからだ

特に  入学試験は
この人間の  無数の能力のたった一つ
それも  ごく限られた
学力という力だけを  比べたものである

入試で
君たちの心の優しさ
豊かな情緒
人間性が  わかるはずがない

希望がかなわなかったときも
力を落とすことはない

合格したときも
自分のすべてが評価されたかのような
錯覚や独断に陥って  過信してはならない

結果がどのようになろうと
君たちは  努力そのものを誇っていい

どこの高校  どこの大学に入るかが
目的ではない
そこで  何を学ぶかが
最も大切なことだから

教育に競争原理が持ち込まれたのは、いつ頃だろうか。学力といわれるものは、人間を選別するのにとっても都合のいいもの

 

だ。人の値打ちというのは、簡単に判定できるものではないのだが、学力によって簡単に判定しているから問題だ。

学歴フィルターというものをご存知だろうか。就活セミナーの登録で、大学名によって受付できたりできなかったりする仕掛けのことだが、このフィルターを巡って、今ちょっとした騒動が起きている。具体的には、例えばAさんが自校の大学名を登録すると「全日程満席で 受付可能な日程はありません」と表示され、学歴を上位大学名で登録すると、全日程受付中に切り替わり、好きな日程で予約し放題だったという。表向きは「学力を考慮せず」と公平な採用活動を掲げながら、裏では巧妙に学歴フィルターを掛けている企業も少なくない。売り手市場の今、企業は上位大の学生を必ずしも採用できるとは限らない。

受験は、人生の中の通過点ではあるがゴールではない。結果が良くても悪くても、その出来事をよい経験として見守ることができたなら、人はみな自信を持って歩んで行くに違いない。

3
月という節目の月は、日々の生活の中で育んできた思い出を辿り、これまで関わってきた様々な人や物事への感謝と新しい道を歩むために、しっかりとした気持ちで生活することが大事だと思う。

庭にヤマガラの声が響く。
南からだんだん春が

近づいてくる。

(ルリソウ)

 

 

2018318

良く、生きる-生きている中身を心掛けたい-

近年、アンチエイジングに関する情報が雑誌やテレビで賑わい、これに関する経済効果も相当程度あるらしい。冒頭から横文字で恐縮だが、アンチエイジングとは日本語で「抗老化」というらしい。分かり易く言えば、老化に抵抗して若さを保っていく考え方だ。「健康づくり」「10年若返り」という見出しが躍る雑誌や美容品、最近では「老いない体の…」などという書籍まで登場している。ところが「10年若く…」という魔法の言葉に酔いながら、10年はおろか、ちっとも若くなっていないのが現実だ。そうした若くて元気溌剌な「健康体」の持続を価値と見る考え方には、恐らく、人は老いて死するという「命の事実」が抜け落ちてしまっている。生きるということは老いて死ぬことそのものなのに…。最近、「年齢よりも若いですね」と言われて喜ぶ自分に驚く。勿論、健康は大切だが、老病死という命の事実の中で「良く、生きる」、生きている中身を心掛けたい。(H)

 

 

2017813

ルリソウからの風〜人間への信頼感欠如の学校現場〜

虐めの問題を受けて、学校教育の問題は、今さまざまに論じられている。しかし、そうであるのに、学校や授業の中に直接入り込むことはもちろん、学校の子どもの事実から法的なものをさがし出し、教育の方向や理論、方法などの本質的なものを明らかにつくり出す作業は、あまりされていないように思う。また学校教育での具体的な作業に参加し、すぐれた授業や学校をつくりだすことによって教育の課題や方法を考え、つくることが国民的な課題にもなっていない。それどころか、そのときどきの政治的・社会的な関心から、発言や事実に関わりのない無責任な評論、狭い教育学の世界や実践の場から出た一般論が多い。

 今必要なことは、学校教育のきびしい中に入り込み、現実の学校や教師、子どもの事実に従いながら、多くの人の力で具体的な事実をつくり出し、そこから生まれた事実をもとに、学校や授業、教師や子どもたちの問題を具体的に考えていくことではないだろうか。その中で学校教育とは何か、その仕事に携わる教師はどうあるべきか、子どもたちの中で何が問題になっているのかを、みんなの力で事実に即して明らかにしていくことが必要である。

 学校で子どもたちは非常に頼りない存在で、自分の力ではどうすることも出来ない形で、先生によって自分の位置づけや扱いが決められる。多くの学校では、日々クラスや個々が競争し、部活動やクラブ活動では団結力を学び仲間をつくる。そうした中で、競争は勝敗や優劣を生み、仲間意識は仲間外れを生む。また勉強においても、子どもたちに名誉心や競争心や恐怖心によって勉強させるということがある。一人一人が、自分も相手もどんなに幼い子どもであっても、ひとつの独立した人間であり、尊い存在であり、それぞれがすばらしいものを秘めているんだという人間に対しての信頼感が、今の学校教育には足らない気がする。今の学校教育の中で、最も必要なのは、やさしさではないだろうか。  (ルリソウ)

 

2017813

いのちとは、時間を誰かの為に使うこと

718日、生涯現役医師として活躍された聖路加国際病院名誉院長の日野原重明さんが、多くの人に惜しまれながら逝去されました。享年105歳。日野原さんは、これまで「成人病」とされていた呼び名を「習慣病」と提唱したことでも知られているが、語られる言葉には人生哲学を感じるものが多い。「人生とは習慣である」「年をとることは楽しい冒険」と長寿を生きる知恵を語る一方、小学校などに出向いて行なった「いのちの授業」の中では、子どもたちに対して「いのちを大切にするとは、いのちを上手に使うこと。つまり君のもつ時間を君だけでなく、誰かのために使うこと」「いじめは友達のもつ時間を奪い、いのちを傷つけるもの」などとメッセージを語った。また「誰かの時間と君の時間が一緒になって、君の命が膨らむんだよ」とも。他者のために使う時間は紛れもなく自分の時間を諸費するのだが、そのことによって他者が幸福になるだけでなく、翻って、自分が幸福でいられる時間でもあった。

考えてみれば、この自分が持っている時間もまた、違う他者がこの自分の幸せを願い、使ってくれていた時間であったかもしれない。思えば、『正信偈』に「五劫思惟」という言葉があるが、これは、阿弥陀仏が無限の時を使って、私たちを苦悩からどのように救えばよいのかと悩み抜かれた、という意味だ。つまり、仏様が他者の幸せを願って、無限の時間を使って下さっていたということである。そのことに気づいたのが親鸞聖人であった。誰かのために生きることは、共に生きるためである。

 

2017318

個人を護るのは情報公開と言論を規定している憲法

-映画「抹殺された知事」を観て-

 先日、「抹殺された知事」という映画を観た。20069月、佐藤栄佐久福島県知事(当時)が「謎の収賄事件」によって518年勤めた公職辞任を余儀なくされ、有罪となった事件のドキュメンタリー映画だ。その当時、他の2県の知事も公職を追われていたという。彼らに共通するのは国策に物を言い、国と対峙してきた「改革派知事」であったことだ。捏造された証拠に基づいて裁判で有罪となった背景に、東京電力の原発問題も絡んでいるとされる。当時、度重なる東京電力の原発事故隠しに、県民の安全を第一に掲げる知事として問題提起をしていたのが佐藤栄佐久氏だった。国・地方自治体・産業界・マスコミなど、原発の利益に群がる、言わば「原子力ムラ」の巨大な圧力によって佐藤氏が公職から引きずり降ろされたことは想像に難くない。そして、佐藤知事辞任後の20113月「東日本大震災」で福島原発災害の悲劇が起った。まさしく、佐藤知事の不安が的中した瞬間だった。震災から6年、隠蔽・捏造も厭わぬ巨大組織から個人を護るのは情報公開と言論を規定している憲法であると強く感じた。

 

2016813

尊厳を軽んずる「空気」に警鐘を

-相模原・障がい者殺傷事件を考える-

さる7月26日の未明、神奈川県相模原市緑区にある障がい者福祉施設で発生した殺傷事件で、容疑者は、19歳から70歳までの入所者を次々襲撃、頸部を斬り付けるなどして、26人が負傷、19人が犠牲となるという、身の毛もよだつ残虐極まりない犯行に言葉を失う。犠牲者の多くは重度の障害を抱えていたという。この事件によって、事件の被害者ご本人そしてご家族のみならず、全国の障害を抱えている方々のことを思うと、胸が痛む。

事件前、障がい者に対して容疑者は「安楽死させるべきだ」「死んだ方がいい」と言い、取り調べでは「ヒトラーの思想が降りてきた」と話したという。なぜ、このような身勝手な思想を持ち、行動するに至ったのか。この事件の全容解明が待たれる。この事件を受けて私は、ある特殊な思想を持った容疑者が犯した特殊な事件である、などとしてはならない。ヘイトクライム(憎悪犯罪)として扱うべきであると考える。

 近年、ヘイトスピーチ(憎悪表現)が社会問題になっている。在日コリアンに対して、侮蔑的な言葉を発しながら町を練り歩き、人々の憎悪を駆り立ててく、しかも「愛国心」の名のもとに。このような憎悪感情を煽動する行為に恐怖を感じる人も多い。様々な民族、文化を背景とする人々、老若男女、多様な価値観を持つ人々が寄り集まって地域社会を作っていくからこそ、豊かな社会が生まれるのである。しかしながら近年、日本のみならず世界が、自らの価値観・文化・宗教を絶対化し、それ以外の異なる価値観・文化・宗教を排除するという内向きの傾向がますます強くなっているように思う。こうした形で共に社会を担って生きてきた者同士が分断され、対立し、憎しみ合い、殺し合っていく…。自分の身勝手な判断で、人間を役に立つか立たないか、価値があるのかないのかを判断し、価値がないとみなせば抹殺する、しかし、自分たちの行為は「正義」だという思いを募らせていく。

 この事件を犯した容疑者の口からヒトラーの名が発せられたのは、決して、偶然ではあるまい。かつて、ナチスドイツを率いたアドルフ・ヒトラーは、ユダヤ人に対する大量虐殺・ホロコーストを実行する前に、身体的・精神的障がい者を「安楽死プログラム」(ナチスによって生きる価値がないとされた人への組織的殺害)によって殺害を実行している。

こうしたマイノリティという社会的な弱者に対する強い差別意識は、偏狭なナショナリズムと相まって、結果、人間の尊厳性を押し潰すにとどまらず、残虐的な形で命そのものを奪うという方向を持っていることは疑うべくもないことである。

 かつて、このような言葉を聞いた。「戦争は戦争の顔してやって来ない。平和だと思っている中で平和を損なう小さな罪の積み重ねが戦争へと繋がっていく」と。人間の尊厳を軽んずる思想や言動を容認していくような社会的「空気」が、人間性を失ったものを生み出し、そしてまた、同じような「空気」が作られていく…。その空気は、私たちの差別意識が作っていると言っても過言ではないだろう。世界という多様な価値観・民族・文化の中で、視野の狭さ、偏狭な考えに警鐘を鳴らしつつ、仏様の教えを「智慧の眼」として、社会を見つめ、声を挙げていくことが求められているような気がしてならない。(H)

 

 

2016318

今、戦争で犠牲となった人たちの声の前に立つ

〜「無三(むさん)(まく)(しゅ)」「兵戈(ひょうが)無用(むよう)」「(ぬち)どぅ(たから)」〜

昨年は戦後70年という節目を迎えた。そして来る7月には参議院議員選挙、結果によっては歴史的な転換点になるやもしれない。昨今、集団的自衛権容認、安保関連法の成立、憲法改正の動きなど、戦争前夜を予感させるような「空気」が漂ってきている。日本を取り巻く環境の変化を理由に軍事的な動きを正当化する論調も目立ってきた。しかし、日本は敗戦を経験し二度と「戦争する国」にはならないと憲法に(うた)い、平和立国の道を歩んできたはずである。

筆者は2月上旬、沖縄へ行った。断っておくが観光目的ではない。約20万人が犠牲となった沖縄戦の戦跡を訪ね、今も沖縄の人たちを苦しめている米軍基地問題を考えるためである。そして東京電力原発事故による放射能汚染問題に見られるように、()(みん)を生み出してもなお原子力に依存し続ける国家の在り方と同根の問題を抱えているように思ったからである。

22日、私は自然窟「チビチリガマ」の前に立った。沖縄戦でチビチリガマに逃げ込んだ住民140人のうち、幼い子供を含め85人が集団(しゅうだん)強制死(きょうせいし)集団(しゅうだん)自決(じけつ))という形で犠牲となった。窟の中に入ると、そこには僅かな遺骨や遺品が散見した。そして暗闇の奥から呻きや叫び声が聞こえてくるような感覚を持った。同じ日、米軍基地のキャンプシュワブに行った。沖縄の《おじぃ》や《おばぁ》が()()古基地(こきち)建設反対の座り込みをしていた。そこで聞いた「(ぬち)どぅ宝」という言葉が胸を突き刺した。目の前で無残に殺されていった多くの人たちの声なき声だったのだ。そして『無量寿経(むりょうじゅきょう)』という経典には阿弥陀仏が浄土を建立する時に掲げた「無三(むさん)(まく)(しゅ)」「兵戈(ひょうが)無用(むよう)」という言葉がある。文字通り、人が人を殺すことのない世界を願った仏様の精神だ。世の中が大きく変わろうとする今、私たちは、戦争で犠牲となった人たちの声の前に立ち、後世に恥じない選択をしなくてはならないだろう。(H)

 

201611

人、いずくんぞ鬼神につかえんか

2016年元旦。「一年の計は元旦にあり」という故事がありますように、新年を迎え、一年の目標・抱負を立てて新たなスタートを切られたことと思います。私自身のことで恐縮ですが、目標・抱負は三日も過ぎるとトンと忘れ、年末ともなると、また一年を反省し忘れる催し「忘年会」で締めくくる…そんな繰り返しでした。

 

併しながら考えてみますと、忘れても良いことと忘れてはならないことを明確に区別しなくてはならないように思います。事柄によっては、二度と同じ過ちを繰り返さないようにしっかりと記憶に留め、そして負の歴史から学び、後世に伝えていくことが求められます。人間は過ち続けていくもの。その過ちから学び続けなければ、また同じ過ちを繰り返してしまうことは歴史が物語っています。

原発問題、沖縄の基地問題、安全保障法の問題憲法改正問題…日本は今、岐路に立っています。今後、どのような国になろうとしているのか、立憲主義・民主主義を議論していく大切な一年になりそうです。

親鸞聖人のお書物に「人、いずくんぞ、よく鬼神につかえんか」(『教行信証』「化身土巻」)という言葉があります。人間が人間である限り、鬼神なるものにつかえることは出来ないのだ、といった意味でしょうか。それに先立って親鸞聖人は、経典の言葉を引用され、鬼神の「鬼」について、「尸(しかばね)」という字を抑えられて「形あるいは人に似て、あるいはケモノのようなもの」「悪病を起こす、命根を奪う」ものだと述べられています。容姿がいかに素晴しくとも、人間・人間性の命を奪い、人間を「尸」にしていくものを「鬼神」と見定め、人間が人間である限り「鬼神」なるものに従って生きることはできないのだ、ということでしょう。

親鸞聖人が教えて下さる念仏というものは、人間が人間であり続けるのか、それとも人間であることを棄てて生きるのか、そうした問いかけを突き付けているような気がします。

今年も宜しくお願い致します。

 

2015813

戦争に繋がる法案に反対〜親鸞教徒として〜

最近の政府・国会は何かオカシイ。安保法案のことだ。歴代政権が違憲であるとしてきた集団的自衛権を安倍政権は閣議で合憲と決め、11本もの安保法案を成立させようと躍起になっている。しかし、憲法学者や作家、ノーベル賞受賞者など多くが法案に反対や懸念の声を挙げている。今や著名人だけではない。サラリーマンや子育て中のお母さん、高校生や若者など、国会や各地で反対の声を挙げるデモが盛んだ。

自らの国を守るのに自衛権に反対とは…という声も聞くが、自衛権という言葉で誤解を生んでいる。つまり、日本と同盟関係にある国が敵国に攻撃された場合、日本が攻撃されていなくても反撃できるというもので、実体は集団的自衛権ではなく集団的他衛権だ。それゆえ、先制攻撃になるという指摘もある。こうした国会における政府答弁の曖昧さの中に、国民は安保法案の怖さや危険性を見透かしているからこそ、「戦争法案」という言葉が生まれ浸透している。

戦争とは人を大量に殺し、また国民が大量に殺されるということだ。私たちが愛する夫や息子や兄や弟、恋人が殺し殺されるという凄惨な殺戮現場に身を投じるということなのだ。戦争は戦時環境を整えることから始まると言う。戦争に関する法案を作り、情報操作されて国民に知るべき情報が届かなくなり、危機感が煽られ不安と恐怖が作られる。こうして、ジワジワと戦争環境が作られる。

かつて、真宗大谷派を初め仏教界は戦争に協力した負の歴史を持つ。私は、仏教徒ならびに親鸞教徒の名において、戦争と戦争に繋がる安保法案には断固反対する。

 

2015318

価値観の異なる他者を友とするのが「同朋」〜親鸞の世界観〜

今年1月、ISIL(「イスラム国」)という過激派によって、ジャーナリストの後藤健二さんと遊川春菜さんが残忍な方法で惨殺されるという、大変ショッキングな事件が起こった。世界中が二人の解放を願ったのも空しく、動画に映し出された映像に、背筋が凍るおぞましい感覚をもったに違いない。政府の「テロとの戦い」という勇ましい掛け声に対して、現実は余りにも厳しい。これまでの日本の関わりによって親日派が多いとされる中東で、最早、日本が欧米と同じように受け止められているということか。中東・イスラム世界について私たちは、余りにも無関心であった。異なる文化・価値観に生きる人を知る、まず、ここが出発点である。価値観の異なる他者を友とするのが同朋である。

 

2014813

灰色の世界を作らない為に〜思考の欠如を超えて〜

中東ではイスラエルによるガザへの攻撃が止まらない。従来、紛争は戦闘員から戦闘員への攻撃が暗黙の了解だった。しかし今や、攻撃から逃れようとパレスチナのガザ市民が避難した国連施設ですら、容赦なく空爆されている有様だ。イスラエル・ガザ地区双方の少年が殺害されたことが発端とされるが、当初から、警察事案とはされず、軍事攻撃に発展していた。怨恨は想像できないほど深い。

 近年再び、ハンナ・アーレントが注目されている。ドイツ系ユダヤ人で哲学者の彼女は、ホロコーストに関与したナチス親衛隊・アイヒマン裁判記録『イェルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告』はあまりにも有名で、アイヒマンを極悪人ではなく、ごく普通の、陳腐で真面目な役人として描き、そこに「思考の欠如」が行為に及んでいるという。これは、最近、佐世保市の女子高生が「人体解剖」を目的に同級生を殺害した事件など、若年層の凶悪犯罪の特徴に、短絡的な傾向が見受けられるのは、想像力や思考の欠如によるものとも言える。

 そもそも大量殺戮は、必ずしも極悪人が起こすとは限らない。仕事を真面目にする人間が、戦争という特殊な状況下で思考停止状態となり、感情や表情を失った中で何の躊躇もなく、真面目に人間を殺害する。これを仏教では地獄という。

 政府は今、憲法の解釈を変更し集団的自衛権の行使、「戦争放棄」を謳う憲法九条を変えて、戦争できる「普通の国」になろうと画策し、暴走している。その国家権力の暴走にブレーキをかけるのが憲法だ。事実、憲法の条文には、国務大臣や官僚が憲法遵守の義務を負うと規程されている。

私たちは、戦争を止められなくなる前に、政府や社会の動きに関心を持ち、考え、議論し、命に対する感覚を養っていくことが求められている。戦争から、綺麗な街や自然、素敵な人々を護り、灰色の世界を作らせないために。

 

 

2014318

「東北」という個性を、見つめ直す「時」

3年前に体験した東日本大震災は、私たちの価値観や人生観を大きく変える出来事でした。自然災害に対しての向き合い方、そして科学技術と生活そのものの転換…。特に、原発災害は、将来にわたり禍根を残しました。震災以降、誰もが原発や放射能に関する本を読んだことと思います。それはきっと、科学的・医学的視点からのものでしょう。しかしその一方で、社会の構造として原発を受け入れてしまう問題も見えてきました。それは、言わば、「犠牲の論理」であり「差別の論理」です。沖縄を国土防衛の「捨石」とした沖縄戦、高度経済成長の中で生じた水俣病問題、「近代国家の体面」の下に進められたハンセン病患者に対する強制隔離政策…。そして、この東北は、食糧基地・労働とエネルギー供給地として、首都圏との関わりを持ってきました。しかし、東北人に対しての都会人の蔑視・差別意識は、陰に陽にあったのではないか、その淵源というべき史実に、坂上田村麻呂の存在が見え隠れします。

今や、自然環境の厳しさと貧しかった東北の歴史を、東北人である私たちがもう一度、見直すことが必要ではないかと思います。厳しい環境であるがゆえに、生まれた文学・文化・芸能・習俗、東北の人の忍耐強さと優しさがあるのです。

昨今、私は民俗学者・赤坂憲雄さんが提唱する「東北学」に注目しています。代表作に『東北学/忘れられた東北』がありますが、『3・11から考える「この国のかたち」-東北学を再建する』という近著もあります。民俗学的な視点、社会学的な視点で見ると、沖縄問題や水俣病問題と繋がっていくと考えます。時代は、グローバルからローカルへ。「東北」という個性を、文化的歴史的な価値として見つめ直す「時」に来ていると思います。

 

201411

東日本大震災から2年9ヵ月

原発災害の教訓の一つ〜情報は隠蔽されるということ〜

東日本大震災から2年9ヵ月。今も復旧復興が遅々として進まない津波被害地域、復興の見通しすら見えない福島県の、特に放射能汚染による帰還困難区域がある一方で、震災などなかったかのような「空気」が、国をはじめ、社会全体に蔓延している。原発再稼働の動きは、その典型的だ。一度の事故によって、大地や作物を汚染し、人が住めない広範な空間を作るのみならず、子孫にまで放射能は命を蝕んでいく。そんな大きなリスクをかけ、決して安価ではない原発に頼る社会は、どこかオカシイ。あの震災によって、私たちは生き方や価値観の転換を迫られ、物の豊かさ・便利さが、決して、幸福につながるのではないことに気づいた。自然の豊かさ、そして、精神的・文化的な価値観がいかに大切なものであるか、知らされた。昨年11月末、俄かに、特定秘密保護法案が十分な審議も尽くされず、政府・与党によって強制採決された。政府が「秘密」と決めた情報は原則60年間非公開。秘密とする内容も秘密であるというのだから、不都合な情報も恣意的に隠されるであろう。そもそも、国民主権である以上、国家の情報は、少なくとも、国民の代表である国会が監視するものだと考える。近代国家は、情報公開が原則とされている中、これで、原発事故・放射能漏れの情報や戦争に関わる情報が隠蔽され、私たちの生活に関係する情報を知ろうとすることに制限がかけられなければと思うばかりだ。原発事故の教訓は、肝心な情報は隠されてしまうということである。(H)

 

201391

美しく、力強く、したたかに

高山植物の宝庫・宮城蔵王

蔵王の春夏は短い。雪に覆われた長く厳しい冬を、じっと耐え、その時期を待ち望んでいたかのように、雪融けとともに、色彩豊かないのちが一斉に咲き誇る。登るものを出迎えてくれる花なれど、人の目に止まるまでの成長は遅い。開花に数年は要する花もあると聞く。今年出あった花は、来年、咲かないかもしれない・・・。それゆえに、出あいが一期一会であることを実感する。小さく、美しく、力強く、したたかに生きる山岳の花に、惹かれてやまない。(H)

 

2013311

震災の思想

〜被災者の《語り》、人類の記憶に〜

東日本大震災から2年余、被災した海岸地域では、いまだ、復旧・復興からまだまだ遠い状況が続く。加えて、震災で失ったものが大きいだけに、被災された方々の心は癒されていない。それに追い討ちをかける「風化」と「忘却」。

 先日、政府は原発再稼働を宣言し、審議の場から脱原発派が外された。また「防災」の名のもとでの全国的な公共事業の復活に、被災地の復旧・復興の遅れに影響があるのではないかと心配する声が出始めている。

 物事を見る確かな目、震災の検証、建設的な議論、将来的な展望……、そうしたことが国レベルで十分なされていたかは疑わしい。検証や議論というものは、その人がどのような立ち位置にあるのかによって、展開と結果が変わってくるものだ。

 震災後、「忘れないで」という言葉が、被災地から様々に語られる。この言葉の中には、字義以上に、「共に生きてほしい」という思いが込められている。住む場所や環境は違っても、「共に」と言える世界が、どこに開かれるのか。

 震災を自然災害として記録していくということで、画像や映像を保存していこうという動きがある。しかし、「共に」という世界は、出来事を記録していくということではなく、記憶していくということである。記憶とは何年・何十年経っても昨日のことのように思い出されるということ。そして、その出来事の中で、人が生きている事実があるということである。被災者それぞれに経験した震災の記憶は、被災者自身の《語り》によって、人類全体の記憶となる。そこに、耳を傾け、震災の場で人が人として生きているという、紛れもない事実に触れることで、何かを感じ、ここに共感の場が開かれてくるに違いない。

 そして、震災をどのような出来事として受け止めていくのかという、思想が必要だと考える。理不尽さ、理解不能なことは、そのようなこととして受け止めていく思想が必要である。そうしたことが、今、この社会に生きる一人ひとりに求められているのではあるまいか。

時代は異なるが、天変地異を克明に記録した鴨長明の『方丈記』、戦国乱世の中で生きた親鸞聖人の著述など、危機的状況と向き合い、道を開いていった先人の思想に学ぶこと、ここに、震災後の時代を生きる何か手掛かりがあるに違いない。(H)

 

201288

時代の目撃者であり、当事者

「一人ひとり注意深い市民」が脱原発の声を挙げはじめた

反原発デモが盛んだ。昨年、発生した東日本大震災が起因となった東京電力福島第一原発災害から、一時、国内全ての原発が停止していたが、政府は、「夏の電力不足」を理由に、福井県にある大飯原発を再稼働させた。「安全が確認されなければ再稼働はしない」と総理や経産大臣が公言していたはずだったが、名ばかりの「安全宣言」を発し、国会の事故調査委員会報告すら待たずに、見切り発車させた形だ。その背景には、原発再稼働しなければ不良債権化し経営の悪化に危機感を持つ電力会社の事情も見え隠れするし、他に停止中の原発再稼働に弾みをつけたいと目論む意図もありありだ。またぞろ、「原子力ムラ」と揶揄される既得権の住人たちが再稼働に向けて動き出している。原発災害によって齎された福島の人々の悲しみや苦悩、そして命を、あまりにも踏みにじるものだ。そもそも、原発賛成・反対以前に、原発問題は放射能に強制的に被曝させられてしまう問題なのだ。特に、低線量だとしても放射能被曝は幼い子どもほど影響がある。

そのような動きの中で、毎週金曜日、原発に反対する何万人もの市民が国会前に押し寄せている。様々な方面で言われているところだが、このデモには、かつての安保闘争に見た組織的動員はほとんど見られない。

717日に東京・代々木公園周辺各所を会場に開催された「さよなら原発10万人集会」には、猛暑にも関わらず17万人もの市民が集結。その壇上に立った主催者の一人、大江健三郎さんは、集会を「群衆という印象ではない。一人ひとり注意深い市民たちが、個人の意志によってここに集まって集会を開いている」と述べられたあと、廃炉を求める署名を国会に提出した翌日に大飯原発再稼働を決定した国の対応に触れ、「原発大事故がなお続く中で、関西電力大飯原発を再稼働させた政府に、侮辱されていると感じる」と語られた。

 これまで国の政策に声を挙げずに沈黙を守ってきた市民は、決して、思考停止をしていたのではなかった。注意深く国の動きを観察していたに過ぎない。その一人ひとりが、個人の意志で声を上げた。幼い子を抱っこした若い母親の姿、年老いた老夫婦の姿、仕事帰りのサラリーマン、スマートフォンを片手にデモをじっと見つめる青年の姿…。このデモクラシーの光景を目の当たりにし、800年前に生きていた親鸞聖人を思い出す。当時の、朝廷や武士に抑圧され、無惨に殺されるような状況の中で、ただ困窮に耐え、沈黙を守ってきた民衆が、親鸞聖人の念仏の教えによって、一人ひとりが生きることの意味を探し、声を挙げ始めた。あの鎌倉時代の念仏者のうねりが、実は、今日の浄土真宗を支えてきたのであった。

 このデモによって、政党政治や国会という日本が長年築き上げてきた制度としての間接民主主義は金属疲労を起こしつつあることを露呈させてしまった。今や、日本の未来を決めるのは、政治家や官僚ではなく、私たち市民にあることを意思表示しようとする「注意深い人々」がまだ沈黙を守りながら、しかし、声を挙げようと、デモの背後に控えている。時代は、まさしく、大きな転換をなそうとしている。私たちは、時代の目撃者であり、何より、当事者なのだ。(H)

 

2012327

生き方・価値観の転換への岐路

〜原発は「いのち」の問題・人間性の問題〜

東日本大震災から一年余、様々な思いの中で311日を受け止められたことであろう。マグニチュード9の巨大地震によって発生した大津波が東日本の海岸地域を飲み込み、東京電力福島第一原発の事故によって放射能汚染が拡大、死者・行方不明者を合せ、約2万人が犠牲となった。自然災害としての大津波、人災としての原発災害という違いこそあれ、この大災害によって、私たちは間違いなく、自然との向き合い方、そして人間の存在を見えない科学の検証が迫られているのである。平たく言えば、私たちは、これまでの価値観や生き方を転換せざるを得ない岐路に、否応なく立たされたということだ。その中で、震災後の今、震災前の価値観に戻るのか、それとも、新たな展開をみていくのかが、厳しい形で問われているのではないか。

思えば、人間は科学技術があれば、自然の力を抑制し自由に利用できると考えてきた。そして、人間の知恵をもってすれば、科学技術の恩恵を享受できると考えたが、結果的に、それは幻想にしか過ぎなかったことが白日のもとに晒されてしまったのだ。大津波で自然力を抑制できないと知らされ、原発事故によって、科学は放射性物質という魔物を作り、その暴走を制御できなくなった。共通して言えることは、人間の知恵が作り出した「安全神話」が脆くも崩壊したということだ。このような厳然たる事実を前に、人間は無力であり、人間の知恵には闇があると知ったところから、震災全体を受け止め直していかなくてはならないだろう。親鸞聖人は、鎌倉時代にあって、すでに、人間の行為は「雑毒の善」だと看破していたのであった。原発災害を見るに、事故後の対応で、政府や東京電力、御用学者、マスコミなどの情報隠蔽を含めた情報操作は多くの混乱や不信感を齎し、被害を拡大させた。そして経済界を含め、既得権益や利権が絡む強固な「原子力ムラ」の影響力が、この国の進路が左右されていたことも明るみになってきた。原発事故から一年が経ても、事故の究明がまだまだ進んでいないばかりか、放射能汚染地域の多くの方々は住まう土地を奪われ、家族を分断され、健康を含む生活の見通しがないまま避難を余儀なくされている。そのような状況の中で、経済産業への影響を理由に原発推進を進めようとする声が早くも出てきていることに呆れるばかりだ。原発事故の被害と、そこに被害者の深い悲しみと怒りは何だったのか。

私は今、原発問題は「いのち」の問題であると声を大にして言いたい。原発の稼働が30年乃至40年と言われる中で、この間の電気を賄うために、例えば、半減期が何万年・何億年という、私たちが生きている間に毒性がなくならない放射性物質を人工的に作り出したことで大自然を汚染し、何万年先に生きる私たち人類の子孫の命を脅かす、こうしたことが、果たして、命に対する冒涜と言わずして何というのか。地球が誕生したとされる46億年前、強い放射能の影響があったために生命の誕生は、放射線量が低減するまで待たなくてはなかったと聞く。ギリシャ神話に登場するプロメテウスは天界の火を人間の手に渡したことで、ゼウスの怒りを買ったという。まさしく、放射線の低減を待って誕生した人間が、強毒性の放射性物質、すなわち「原子力の火」を手にしてしまった。

考えてみれば、原子力の技術は、エネルギー政策としての原発である前に、核兵器の技術であった。しかし、「核の平和利用」という美名のもと、原子力の恐ろしさがオブラートに包まれ、高度経済成長という向上進歩の生活を求めてきた先に、今回の原発事故が起こったと言わざるを得ない。そして、厳しい財政に喘ぐ自治体や住民に、投入された多額の補助金が自治体予算の大半を占めるなど、原発を受け入れざるを得ない環境を作ってきた「原子力ムラ」の人々は勿論のこと、原発から作られる電気によって豊かな生活を享受しながら、原発に対して無関心で有り続けた私たちの責任も問われなくてはならない。「犠牲の論理」で作られた社会構造は、本質的に差別意識によって成り立つ。そうした問題を看過したまま、生きていくことは、もはや、許されない。沖縄問題、水俣病問題、戦争問題、原発問題…、これらは、経済から派生した問題ではなく、本質的には差別の論理から生じている問題だ。ゆえに、私たちの人間性が問われている問題ではないかと思う。(H)

 

2012年1月5

寒中お見舞い申し上げます

 昨年3月11日に発生した東日本大震災は、私たちがこれまで築き上げてきた価値観や生き方について《問い》を迫り、その方向性を大きく変更せざるを得ない出来ごとでございました。地震による大津波によって自然の猛威を知り、原発事故によって文明崩壊の危機を感じました。就中、「他者への抑圧と犠牲」を伴う放射能の上に積み上げられた人間生活の虚偽性が白日の下に晒されたものでありました。

 このたびの震災をとおして気づかされたこと、それは、人の温かさであり、多くの方々に支えられて今日の「私」が生かされていたという事実でありました。衷心より、御礼を申し上げます。

東北の復旧復興への道のりは、これから長い時間を要することと思いますが、人との出遇いを重ねながら、人間精神の復興へ歩んでいきたいと存じております。

本年も宜しくお願い申し上げます。(H)

 

201186

被災地・汚染された大地を生きる

    もう、悲しい出来事を繰り返してはならない 〜原発震災

人々を震撼させた311の大地震は、現代という時代に生きている私たちに、生き方そのものの転換を迫る出来事となったことは間違いないだろう。それは、復旧・復興を議論する政府にも及んでいる。例えば津波対策だ。これまで防災という観点で、襲来する大津波に対しては、想定される津波よりもより高い約10mもの強大な防潮堤を作ってきた地域もあった。しかし、今回の地震によって発生した津波は、その強大な防潮堤を難なく越え、漁業の町を飲み込んだのである。古くから、津波が来たら高台に逃げることが大事だという。そこで今、津波と対峙するのではなくて、津波を弱め、逃げるための方途、「減災」という視点に立った対策が必要だという議論が生まれている。それは、「自然災害は防ぐことはできない」という人間の限界性を知り、災害を減らしていくという考え方だ。この考え方は仏教にもある。それは、<いのち>の限界性をもつ人間が、人間は自然をコントロールすることができないという事実に立ち、そこから、どのように生死(しょうじ・迷い)を越え、生きていけばよいのかを求めてきたのである。

 そして人間の力の限界性を、より白日の下に晒したのが原発震災である。この事故は明らかに人災だ。端的に言えば、人間の科学・知への過信と傲慢さが齎した事故であり、大地に生きる多くの生命を危険に晒しながら、快適かつ安定的な生活を築いてきた「向上進歩」の結果だ。加えて、原子炉の建屋が水素爆発し大量の放射能が飛散した事実を知りながら、東京電力と国はその事実を早期に公表せず、多くの住民を被曝させた。

 私たちは広島・長崎に投下された原爆の恐ろしさを経験したが、戦後、核を手にしたい政府は、アイゼンハワー米国大統領の国連演説「原子力の平和利用」(1953年)の美名になびいた。そして、世論として核兵器反対の動きはあったものの、その声を押し切る形で、1957年、茨城県東海村で日本初の「原子の火」が灯された。

 原発事故後、福島県のみならず、日本の国土全体に放射能汚染が広まり、低レベルとはいえ、長く放射能の影響を受けると甲状腺がんや白血病などのリスクが高まることはよく知られている。特に、乳幼児においては、大人の3倍から5倍の影響力がある。しかも、放射能の恐ろしさは、外部被曝以上に、空気中に浮遊する放射性物質を吸い込み、また汚染された食べ物を摂取することで起る内部被曝だ。今回の事故によって放出された放射線量は広島型原爆の数十倍と聞く。一つの事故が地域住民の生命を危険に曝すだけでなく、未来への影響を齎した。国や電力会社をはじめ、利権に群がる、いわゆる「原子力村」の人たちが喧伝した「安全」という幻想によって、放射能の危険性が隠蔽され、「豊かな生活」を夢見た私たちは、結果的に、地方の人々の命を犠牲に成立つ<差別的原子力政策>に加担させられた。原爆も原発も、共に人間の生命を危険に晒す「原子力(核)」を利用した技術である限り、人間の生活と共存はできないし、生命を犠牲にした経済優先の原発と<いのち>を天秤にかけることはできない。相馬市では放射能汚染が家畜に影響し、廃業を余儀なくされた酪農家が自死するという悲劇まで起こっている。

原発事故によって外に放出された放射能は<いのち>を育む大自然を汚染する。海を汚染し、大地を汚染し、水を汚染し、空気を汚染し、仕事を奪い、生活を奪う。そして生命を汚染していくのである。こうした生命の危機に対して、私たちは、もっと悲しみ、声を挙げ、怒らねばならない。人を絶望と死に追いやる原発をなくしていく動きに繋げていかなければならない。なぜなら、私たちの<いのち>を生み出し、育む母なる大地・祖先の大地・如来の大地(浄土)をこれ以上、汚されたくないからである。(H)

 

 

2011425

深い悲しみと沈黙と祈りと

〜東日本大震災から復興に向けて〜

2011311日(1446分)、この日時は辛く悲しい記録として歴史に刻み込まれるだろう。

そこには、日本有数の豊かな漁場があった。子どもたちの声が聞こえる学校があった。日本の産業を支える工場があった。町民を支える役所や病院があった。そして何より人々の平穏な日常生活があった。この日、この東北・関東の広い地域にマグニチュード9という巨大地震が襲い、ことごとく破壊しつくした、いわゆる、東日本大震災が起ったのである。

最大震度が7強という大地震は大地を振動させただけではなく、高さ10メートルから20メートルという巨大津波を発生させ、多くの市街地を飲み込んだ。分かっているだけでも死者・行方不明者を合わせて約3万人もの犠牲者を出した。加えて、「人間の英知の象徴」とされていた福島の原子力発電所も水素爆発を起こすなどの被害をうけ、人体に影響を及ぼす高レベルの放射能を排出した。この大震災で突きつけられたことが二つある。一つは、自然の猛威に対して人間は弱いという事実だ。そしてもう一つは、原発事故のように、科学を信奉してきた人間知には限界があるという事実だ。この二つの事実の上に、私たちの文明生活があったことが、今更ながらに、強く意識させられていると同時に、これまでの生活のあり方、生き方、考え方を大きく転換する必要性が求められているのである。

震災後20日ほどして、大津波で被害があった、とある被災地域に立った。そこには最早、以前の街の面影は存在しない。ただ、変わり果てた凄惨な姿だけが遺されていた。メディアから流れる映像だけでは伝わらない厳しい惨状を目の当たりにしたとき、私は、発すべき言葉を失い、ただ呆然と立ちすくむしかなかった。それは、悪い夢でも見ているような感覚に囚われ、なす術もないからなのか。それとも無力感なのか、虚無感なのか分からない。ただ、自分の存在から何か大きなものが無くなくなってしまったことだけは実感としてあった。そして更に、人々の呻きと叫びがどこからともなく聞こえたように感じたとき、胸が押し潰されそうな深い悲しみが込み上げてきたのである。気がつけば、私には、深い沈黙と祈りだけしかなかった。

これまで、一人の真宗僧侶として、多少なりと、何がしかの仏教の言葉を発信してきたが、この大震災以降、殆どと言ってよいほど、表現ができないでいる。それは、大震災という厳しい現実を前にして、これまで発してきた言葉があまり力のないものであることを、痛いほど感じずにはおれないでいたからである。そして、そのような私に残されたのは、悲しみと沈黙と祈りであった。

思えば、仏教の言葉というものは、深い悲しみと沈黙と祈りから発せられたものが多い。

かつて親鸞聖人は、鎌倉時代という激動の時代状況の中で「念仏をふかくたのみて、世のいのりにこころをいれて」「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれと」と語られた。今、私は、この言葉に励まされ、何か、物理的な復興だけではない、精神的な復興の曙光があるような感じをもっている。この言葉を胸に、共に歩いていきたいと思う。(H

 

20101114

仏教の提言「衆生」が地球環境を救う視座になる

〜横(大自然)と縦(歴史)の繋がりによって成り立つ「いのち」〜

 

冬到来で想う。昨今、全国各地で野生動物に関わる出来事を報道で多く聞く。野生の猿や熊が市街地に出没し、人的被害も発生しているという。「平穏な人間生活を脅かす」ということで、行政が駆逐に乗り出す映像がマスコミを通じて流れる。人間生活の真っ只中に身を置きながらも、何か、釈然としない気分になっているのは私だけではないと思う。

「平穏な人間生活」という視点に立って見れば、市街地に出没する野生動物の駆逐・殺処分は「当然だ」「止むを得ない」という違いはあれども、やはり、排除という対処療法的処置を取らざるを得ないのであろう。しかし一方、野生動物の立場からすれば、異常気象による環境の激変によってドングリなどの食べ物が不足するなど、生息圏が奪われてしまっている状況があると同時に、間伐材の手入れが行き届かなくなったことで里山が荒廃してしまったことも挙げられるという。いずれにしても、人間の生活と環境の激変によるところが大きいのであろう。

報道によると、最近、商品として出荷できなくなった柿や栗、リンゴなどの果実を里山に集め、熊などの野生動物に食べ物を与えるという取り組みが始まったり、野犬を使って熊を追い払うことで、人里は怖いという意識を熊に学習させるという取り組みも始まっているという。人間の知恵が試されるところだ。

動物と人間の住み分けの背景には、共生していく環境がなければならない。人間が熊などの野生動物の生態を知り、里山を手入れすることによって、里山の惠が生まれ、結果的に自然環境を守ることになるのではないかと思う。産業革命以降、世界の自然環境が破壊の一途であるという。環境破壊の結果責任は、結局、人間も住みづらくなるという形で追うことになるだろう。

仏教語に「衆生」(しゅじょう)という言葉がある。「生きとし生けるもの」という意味だ。同時に、人間存在もまた自然そのものだということを想起させる言葉だ。つまり、人間は自然と対立する存在ではなくて、「自然が生み出した芸術だ」という。

環境危機は生物多様性の危機であり、食料危機であり、生命の危機として捉え、全ての生物・生命を「衆生」として捉え、互いが相関関係(縁)によって結ばれているという仏教の提言が、これからの地球を救う視座になるであろうことを思う。

一つの命には、無限に広がる横の繋がり(大自然)と無限に広がる縦の繋がり(綿々と続く生命の歴史)によって成り立っている。つまり、「私」のいのちは、他のいのちによって支えられ、また、背景には長い悠久の歴史がある。そのようないのちの営みの中に、「私」のいのちがある。この「私」に何ができるのかが問われているのである。(H)

 

 

2010410

 

「あなたにとって本当の他者になり、存在の『場』になりましょう」

〜 他者との関係が寸断・孤立し、存在に必要な「場」を失う -自殺問題-

 

この国では、自殺者が年間3万人を超え、特に年度末・年度始めにあたる3月から5月頃が、自殺者がもっとも多いという報道を毎年、耳にします。しかし、自殺未遂や自殺願望の人をも含めると、大変な人数になるだろうことは想像に難くありません。この自殺問題について、宗教界、とりわけ仏教界の反応が鈍いとの批判が、ある新聞に掲載されていました。自殺そのものについて、仏教各派内外の教義的解釈の違いなどが反応の鈍さとなっているとの指摘もありますが、自己批判も含めて言えば、仏教的解釈の問題に終始するような問題ではないと思います。仏教を開いた釈尊(お釈迦様)がその誕生の際、「天上天下唯我独尊」(掛け替えのない存在として一人一人尊いものである)と叫ばれ、一人一人の「個」としての『いのち』に眼差しを向けてきたのが仏教の歴史でした。その意味では、自殺、あるいは人を傷つけ殺めるという問題は、仏様によって尊いとされてきた一つの『いのち』が存在として否定されているという問題ではないかと思います。

  近年、あらゆる場面で「自己チュウ」が問題となっていますが、この「自己中心」というものは正確には「自我中心」ということであろうと思います。自我こそ欲望の正体であるわけですが、この自我が自己をも傷つけ、自分を愛せなくさせてしまいます。様々な社会状況の中で追い詰められていくと、その自我が顔を出し、自我の狭い世界に自分をも押し込めてしまいます。そこには、他者とのパイプラインが断絶され、常に孤独というものに怯えなくてはならない。人は他者との関係なしには生きていけません。しかし、その他者との関係が寸断され孤立してしまうことで、存在に必要な「場」を失ってしまうのです。

そのような私たちに釈尊は「唯我独尊」という呼び掛けをして下さっている。言わば、「あなたにとって、本当の他者になる。あなたの存在の「場」になりましょう」と呼び掛けて下さっていると思います。その呼び掛けを聞くためには、まず私たち自身が自分を大事にすることが必要です。これは決して、自分を甘やかすことではないのでしょう。良い自分もダメな自分も含めて、自分を愛し自分を見捨てない。すると、そういう自分を本当に愛し、大切に思ってくださる「他者」の存在を感じることができるようになると思います。

最後に、真宗大谷派の碩学であった曽我量深の言葉を紹介します。

「機の深信は、劣等感ではありません。自分ほど、尊いものはない、自分ほど、愛すべきものはない。自分ほど、かわいいものはない。だから、自分がどういうものであろうとも、世界中の人から見すてられましても、自分が自分を見すてるということはありません。自分は、一切を見すてても、自分を見すてることはできない。自分だけはこれをほんとうに信ずる。自分をほんとうに信ずることができるならば、また、自分以外に私どもがほんとうに信ずべきお方はあるかないかといえば、私は、つまり、如来を信ずる。如来と自分というものは、離れないものでしょう。」

(彌生書房刊『曽我量深選集』第十二巻「法蔵菩薩」)(H)

 

201011

 

「私たちの意識が変っていくような取り組みが求められている時代」

-人間性への覚醒を求めていく願いと、その願いに生きる人々の世界観-

 

昨年は国内・国外を問わず、変化(チェンジ)がキーワードになった年でした。それは、政治的な構造変換であったり、産業変換であったり、考え方の変換であったと思います。それは20世紀的な価値観からの脱却、言わば、ポスト20世紀の動きだったと思います。しかし、この動きについては「変化」ではなく「変化への萌芽」として捉えるべきでしょう。あるいは、変化への予感として捉えるべきです。事実、オバマ米国大統領にみるように核兵器廃絶演説(プラハ演説)は核廃絶への険しい道のりを歩んでいくための理念・スローガンでありましょうし、一方、鳩山総理の「友愛社会の建設」もまた、現実に起こっている様々な社会の歪みや問題への解決はこれからなのです。その意味では、善し悪しは別として、時代が少しずつ動き出していることは間違いがないようです。

さて、この時代社会の変化とは何でしょうか。それは、人間を取り巻く社会状況の変化、あるいは価値観の変化を意味するのでしょうが、そこに仏教的視点をもって見るならば、もう一つ、時代が経ようとも人間の本質は何ら変わりがないという問題が出てきます。

「煩悩(ぼんのう)」という言葉がありますが、親鸞聖人は「身を煩わし、心を悩ます」と注釈され、煩悩の身を生きている存在として人間を捉えています。私たちは、いつも身の置き所・自分の存在に不安を抱えて生きています。しかも、どのような状況のもとにあっても、自分の存在それ自体が不安性を持つ、それが、深い闇として私たちの身に沈殿しているのです。こうした闇の中にあるのは、「オレがオレが」という自己中心からなる貪欲さです。そのような煩悩の身を生きる私たちに対して、人間性への覚醒を求めていく願いが阿弥陀仏によってかけられている、そしてその願いに生きる人々の世界観を「浄土」と言うのです。あるいは、浄土を社会と言ってもいいでしょう。

その意味では、社会全体が変わっていくためには、その社会を構成している私たちの意識が変らないといけないのでしょう。もう少し言えば、私たちの意識が変っていくような施策や環境といった取り組みが求められているのが、現代という時代社会ではないかと思います。しかし、私たちの意識というものはそう簡単に変らないのも事実です。それは、私たちが経験や学歴などで築き上げてきた自我というものは大変強固で、それが意識を作っているからです。その自我を自分だと思っているから厄介なのです。自分を覆(おお)っている鎧(よろい)が自我であって、自我そのものは自分ではないのでしょう。私たちはこの自我というフィルターを通して他者を見、社会を見、自分を見るから、常に、自分の都合で善にもし悪にもするのです。そのフィルターが社会や国家に持ち込まれると、人を排除したり、戦争まで起こすことにも繋がるのです。

今一度、人とは何か、社会とは何か、国家とは何か、という根本的なテーマについて考え直す時期に来ているのではないでしょうか。(H)

 

20091010

 

「偏狭な世界を破っていく視点」

-新型インフルエンザへの動きから見えてきたこと-

 

今年(2009年)4月にメキシコで発生した豚インフルエンザ(H1N1型)が人に感染・変異した新型インフルエンザが世界に急速に蔓延しています。国内では、同年5月にアメリカ・デトロイト経由で帰国した3名が新型インフルエンザ感染者と確認されて以降、国内進入の水際対策として、空港へ到着した航空機内に防護服を着た検疫官が入るという、そのようなものものしい厳戒態勢の映像が連日マスコミに流れました。そこには実態が未だ掴めない新型インフルの猛毒性と恐怖だけが強調され、「国内初の感染者」とされた人に対して、あたかも「犯罪者」であるかのような風潮や、心無い人からの嫌がらせ・脅迫までありました。しかし実際は、感染力は強いが弱毒性で、疾患をもっている人や免疫力が低下している状態でなければ重篤化せず軽症で終わることも判ってきました。

 こうした状況に対して、医学的あるいは予防学的に対策を講じ、命を護っていくことは大変重要なことであることは言うまでもないことですが、しかし、その「動き方」、例えば、防護服姿の映像によって結果的に、ウイルスの全容が未だ明らかになっていない中で恐怖心だけが植えつけられ、そのことによって、感染者を悪者にしていくような煽動されていく状態を作ってしまったのです。こうした感情的で過熱した動きは、今、社会が抱えている状況の投影であることは言うまでもなく、人間の内面の醜さが剥き出してきたと言えます。

 かつて、ハンセン病の患者・回復者に対する厳しい隔離政策が国や自治体主導で行われてきました。特に明治以降、国策として強制隔離政策を進め、地域ぐるみでその政策に加担をしてきた歴史がありました。非常に感染力の弱い「らい菌」による感染症で末梢神経をおかす病気でありつつも、しかし国は「感染力が強い伝染病」として喧伝し、一方では「遺伝病」という柱を立て、患者狩りをして施設に強制隔離し、強制労働、監禁、断種、堕胎などを強要し、その人間性までも奪ってきたのです。こうした国の政策は、「強制的に」隔離しなくてはならないほどに「恐ろしい病気」であることを、市民に対して視覚的伝達することに有効だったのです。そして第二次大戦中、特効薬ができ、完治する病いであると知りながらも国は隔離し続け、また私たち市民もそのことに何の疑問を持つことがありませんでした。そこには徹底した「排除の論理」と差別があったのです。

およそ90年にも及ぶ強制隔離の後ろ盾になっていた法律「らい予防法」が1990年に廃止されましたが、それ以降も、ハンセン病回復者の置かれている状況や偏見・差別は変わりませんでした。1998年、熊本地裁への提訴を皮切りに、ハンセン病回復者が自ら「人間回復を求めて」行動をし、2001年、ハンセン病国賠訴訟は勝訴となったことは記憶に新しいと思います。しかし、ハンセン病国賠訴訟から発せられた提起は、今も尚、社会全体として、また日本に住む一人ひとりが十分受け止めているとは言えません。

 こうしたハンセン病問題の状況と、今回の新型インフルの動きには類似点があると思います。実態把握が十分になされていない中、つまり環境や体質など含め、新型インフルに感染した方がなぜ、どのような経緯で亡くなったのかがよく解明されていない中で、国の政策やマスコミの情報によって、あるいは不確かな情報による噂によって、「感染力の強さ」と「危険性」がますます強調され、「得体の知れない恐怖」だけが大きくデフォルメされた形になったのです。そこに、社会の病理ともいうべき私たちの中にある「排除の論理」と差別心が相乗的に起った結果だったのではないかと思います。

 私たちの心の中にある偏狭な世界では、「共に生きる」という世界は決して開かれません。親鸞聖人の教えは、そうした偏狭な世界を破っていくものとして、今の時代になくてはならない視点となると思います。2011年に親鸞聖人の750回御遠忌を迎えるにあたり、親鸞という一人の人間の生き方・世界・物事の見方を学び直す意義は大変大きいと考えます。(H)

 

2009425

 

「今、求められていること」

-真に自分の存在を根底から成り立たしめている「もの」を探すこと-

 

とかく、現代という時間は急流である。しかも、その流れに必死で乗ろうとするものだから、ゆっくり考えることもできず、危なっかしい。流れに逆らうものなら、体力もいるし、何より面倒くさい…。仕舞いには疲れきった揚句、納得するとしないに関わらず、物事を単純化し結論を早め、どこ行くとも知らぬ流れに身を任せ、「後は成るようになる」なんてことで思考停止、そして傍観、忘却…。それでも、面白く刺激的なことには反応し、普段のやり切れぬ思いを晴らすべく攻撃的になる…。大方、そんな情況の中で生きているのではないでしょうか。そして心の中に、空虚な、何か満たされないものを抱えながら、自分の存在の置き所を探し求めている…。いや、存在の置き所が仮にどこであろうとも、真に安心というものを得られる保障はないのでしょう。それは、存在の置き所を探す方法が問題だというよりも、存在の置き所を探すこの「私」という存在そのものの意味や意義が問題になっていないということが問題だからです。

私たちの思考には、対外的な状況を変革すれば何とかなると思ってしまう傾向がありますが、(勿論、状況を変えるということも必要なのでしょう)思考している私自身の存在が事柄から問われ、私自身が変革していくという視点が忘れられているような気がしてなりません。もっとも、「変革」という言葉がいたるところで氾濫はしているけれども、その中身がどのようなものなのか吟味もせずに使用することが多く、それぞれがそれぞれの思いやイメージで語られている、言わば、同床異夢になってしまっているのではないかと思います。

「変わる」ということについては、何が変わるのか、どう変わるのか、変わって何がどうなるのか。変わった後でどうなるのか。そもそも変わる必要があるのか。変わることで悪影響はないのかなどなど、「変わる」ということにおいても様々な問題があるようです。

話は戻りますが、世間にある様々な流れに身を任せる生き方、それは「世間は渡るもの」という言葉にも表れていますが、処世術を身につけ、流れのままに世間を渡るということになると、自分に対する責任というものが次第に希薄になっていくと思います。(勿論、世間を上手に渡り、立身出世していくことを否定しているわけではありません)世間を渡っていくことで、逆に、世間に絡め取られ、自分自身の生き方や自分自身の存在にさえ、責任がもてないあり方に陥っていく状況が起こっていくことも否定できません。そのことが、結果的に自分の存在を見失っていく要因にもなってしまっているのではないかと思います。

この「私」という人間が、掛け替えのない人間として生まれ、この「自分」を自分が意識するようになるけれども、やがて、様々な経験や知識、あるいは欲望によって自我が形成される。しかし、この自我が厄介なもので、本当の自分の素直な気持ちを覆い隠し、自我で作られた狭い世界観で他者を見、自分自身の存在すらも価値判断してしまう危うさを持っています。そういう自分に対して、もし、変革という言葉で言うとするなら、生まれたての人間の純粋性に変革していく、換言するなら、生まれたての自分(自我でない自分)に還る必要があろうと思います。つまり、人間の自我の誕生以前に、実は、自分の存在意義があるような気がしてなりません。したがって、強固な自我の要塞を崩してくれる「もの」「人」に出遇い、自我とは異なる、真に自分の存在を根底から成り立たしめている「もの」を探すことが、今、私たちに求められていることのように思います。(H)

 

 

200915

 

「人間存在の根本が問われている」

−人間存在の苦悩を課題とされた親鸞聖人と一緒に悩む-

 

昨年の秋にアメリカで起こったサブプライム問題が発端となり、未曾有の金融危機が世界を覆いました。これによって、驚異的な原油価格の高騰、食料価格の高騰、製造コストの増大、相次ぐ企業の倒産、雇用問題まで発展し、経済危機を超えて世界的な人類危機の様相を呈しています。

近年、グローバルスタンダードという言葉が世界を闊歩し、金融・資本主義的価値が全てにおいて絶対化されるといった幻想に酔いしれていた感があります。人間の価値観をベースにしたものは、ある種、バーチャルなものでしかないのかもしれません。このことは「いのち」や生き方にも反映してしまっていると言っても過言ではないと思います。それは、「いのち」に対する現実感のなさは同時に、生きている実感のなさになって表れているのです。

私たちは、どこかで、幻想を生きているのか現実を生きているのか、そのことすらも曖昧になってきてしまっているのではないでしょうか。確かに、現実生活から幻想世界に逃避することで、一瞬といえども、現実生活の苦しさから回避することはできるでしょう。しかし、私たちが生きる場所は、この現実に生を受けている「身」以外にないのであり、この「身」を離れて生きるということもないのです。

この金融危機の問題によって明らかになったことは、人間の価値観に基づいた主義・主張・あり方が絶対的なものになりえないということだと思います。つまり、人間の持つ知恵というものは「闇」であり、その人間の闇がもたらした問題だということです。

人間存在の土台が崩壊しつつある時代にあって、私たちが人間として生きていくために本当に価値とすべきことは何なのか、何を大切にしなければならないのか、どのように生きていけばよいのか。そもそも、人間として生きるとはどういうことなのか。人間存在の根本が今、問われているのです。

今から約700年前に生きた親鸞聖人もまた、激動の時代の中で人間存在の土台を求め、苦悩した人でありました。その中で親鸞聖人は、人間の本質は時代がどれほど変わっても変わらないものであると見定め、人間の知恵ではない如来の智慧を手がかりに「人間とは何か」を求められたのでした。この現代の時代こそ、同じように人間存在の苦悩を課題とされた親鸞聖人と一緒に悩むということが必要とせられていると思えてなりません。(H

 

 

2008916

 

「米粒一つ一つに菩薩様がおられる」

−人間の「命」の土台が崩れていく食品偽装・食品汚染問題を受けて−

 

 昨年から続く食品偽装問題。食品の産地偽装や使い回しでも大きな問題であったのに、海外から輸入された米が残留農薬や毒性のカビに汚染されたため非食品(工業用)とされたはずが、農水省から数多の仲介業者を経て食品の流通に乗り、消費者の口に入ってしまいました。しかも、体力のない幼児やお年寄りにまで・・・。何を信じれば良いのかと、怒りと悲しみの二つの感情が入り乱れています。

 「幼い時、おじいさんに米粒一つ一つに菩薩様がおられると聞いて解らなかったが、大きくなってその意味が解った・・・」とは20年ほど前に聞いた恩師の譬え話にありました。が、このようにして、私たちは「いのちの食」を心していただいたものです。多くの命あるものが人間の口に入り、人間の命を養っていく・・・そうして、養われた人間が多くの命を抱えながら、念仏によって「いのち」まるごと助かっていく、と。そうした命の営みの中に、毒が宿り、その汚染されたものに合掌していたとは・・・。

 思えば、私たちは、命をいただくことを「食べる」とか「食う」と表現しますが、これは人間の自己中心的な視点から出てくる意識で、そこには合掌の心は見えにくいのでしょう。人間が調理するにしても、もともとあった命を人間が奪い、命への罪を重ねながら自分の命を養っている・・・。そういう意味では、様々な命に対して、どこか罪の意識というものが働いて、自然と合掌という姿が生じてきているものだと思いますし、そもそも、「食」というものは、命の厳粛な事実なのでしょう。その命の厳粛な事実の上に、私たちの命が支えられているのです。

この一連の食品偽装・食品汚染の問題は食品業界に対する不信、あるいは監督官庁に対する不信のみならず、広くは人間の生命を維持するあらゆるものに対する信頼が揺らいで行くことに繋がりますし、さらには、人間の「命」の土台が崩れていくということに他なりません。

「食」について真面目に考えている人、農業を地道に頑張っている人、そして何より、子どもたちのために、食品偽装・食品汚染の問題点を解明し、再発防止への対策が早期になされることを切に希望します。(H)             

 

2008613

 

人間に絶望しない−秋葉原で起こった無差別殺傷事件を受けて−

 

 先日(68日)、東京・秋葉原で無差別殺傷事件〈通り魔事件〉が起き、7人の方の命が無惨にも絶たれました。休日の繁華街の歩行者天国で、よもや凄惨な事件が起ころうとは誰が想像したでしょうか。生々しい現場の状況がメディアを通じて明るみになるにつれ、背筋が凍るような感情をもつと同時に、混沌とした社会の闇・人間の闇の深さを思いました。そして、そこに見えてきたのは、若い人たちが抱えている将来への不安と現在への不満・人間関係の希薄からくるとてつもない孤独、自分を含めたすべてにおいての絶望です。これは、事件を犯したもののみならず、実は、現代社会に生きるほとんどの人の心の淵にある、少なからぬ「思い」かもしれません。その「思い」が一つのキッカケで事件にまで至ったのだと思えてなりません。つまり、いつでも起こりうる事件であり、また誰でもが加害者・被害者にもなりうる事件であると思います。その意味では、社会や人間が壊れていく危機的な状況にあることは間違いのないことだと思います。

 このような事件を抱える社会状況について、仏教はどのように考え、どのように受け止めているのか。そして、こうした時代社会の問題に対して仏教はどのように応えていこうとしているのか・・・。なかんずく、浄土真宗は・・・。

 ふと、親鸞聖人の言葉が浮かび、次のように解しました。

 

     信心(=如来を信じる)とは、

人間に絶望しないということ。ましてや、自分自身に絶望しない

     浄土とは、

人と人との「つながり」を回復する世界

     念仏の教えは、

自分に絶望しないという教え。自分とは何かを問うていく教え

      

 孤独ということは、自分が生きている社会の中で孤立状態にあるということです。それは同時に、他者が見えなくなるということでもあります。他者が見えなくなれば、また他者との出遇いによって生まれる新しい自分にも出遇えなくなるということになります。

 私たちは何十年か人生を歩んでいきますと、自分が学んだことや経験を絶対的なものと確信します。これは一面、自分への「自信」にもなり、また「成功」の鍵となるとも言われますが、しかし、自分が学んだことや経験によって築き上げられた「知恵」というものは、決して、人間全体を包む知恵ではありません。その意味では、自分の知恵を絶対化してしまうと、小さな自分の世界を広い世界として受け止めてしまうのです。つまり、それが自己中心的な世界をドンドン作って行ってしまうと思います。

 他者を知るということは、自分の小さな世界を開いていくということです。また広い世界を知れば、自分と同じような悩みを持つ人と出遇い、また自分の苦しみや悲しみを受け止めてくれる人とも出遇っていくこともできると思います。

 今回の事件を通じて、これから、私たちが考えなければならないこと、また、しなければならないことを一緒に探っていきたいと思います。(H)      2008,,13

 

 

200835

 

「私たちが目を背けているところに本質がある」

 

 私たちは、日常生活の中で意識的に、あるいは無意識的に本音と建前を使い分けて生活をしています。これはある意味では生活の知恵かもしれません。それぞれが本音で語り合うことは人との関わりとしてとても大切なことです。しかし、相手の本音を聞くことなく、自分の本音だけを出し合うならば、それは単に、自己主張を述べるだけの、ぶつかり合いということにもなります。一方で、建前だけの語り合いが続くならば、人は人と本当の意味で出遇っていけないということにもなりましょう。しかし、建前は時として会話と会話を繋ぐ接着剤の役目を担い、世間渡りの手法にもなります。そんな私たちは、自分の中の本音と建前という矛盾と闘い、自分と他人との距離を微妙に保ちながら毎日を生きているのが現実です。

 しかし問題は、個人の領域を超えて、私たちの社会の出来事、あるいは社会構造が本音と建前によって成り立っているとするならば、これは人間の深い闇を増幅させ、時として、人間性をも喪失しかねない事態へと陥ってしまうこともあるのです。

 先日、動物実験をテーマにしたドキュメンタリー映画「1999年のよだかの星」の上映と、この映画を制作した森達也さんの講演に参加する機会を得えました。私たちは「文化的」と称する生活を送る上で高度な医療、化粧品、日用品、食品添加物など、様々な科学技術の恩恵を蒙っています。そして、この「文化的」生活は多くの動物実験の上に成り立っているというのです。つまり、私たちの日常生活は、動物実験を抜きには成り立っていかない現実があると言っても過言ではありません。動物実験について考えることは、単純に善悪を論じることができない重い課題ではあります。ひょっとすると結論がでない問題であるかもしれません。しかし、いのちの大切さを標榜しながら、そのことに目を向けようとしない、知ろうとしない、関わろうとしない、そんな意識のもとに私たちが平然と生きるということがあるならば、それは私たちの人間性を喪失させる「人間の傲慢さ」が横たわっているのではないかと思います。講演の中で森達也さんは次のように語られました。

 

私たちが目を背けているところに本質がある

 

 また、オウム事件についても、サリン事件を起こしたオウム信者に対しては、実態は普通の若者であったけれども、私たちにはオウムは異常で凶暴であってほしいという意識が働くため「普通の若者」としてのオウム信者を受け入れられないと。

 かつて、ラジオで流された情報が発端となり起こったルワンダの虐殺事件のように、情報操作によって大衆を一定方向に誘導していくようなことが起こりうるし、社会の暗部をカモフラージュ(隠蔽)し社会意識を違ったものに変えることが容易になりつつある時代に生きる私たちは、氾濫・錯綜する情報を鵜呑みにせず、自分の目で正しく見、自分で考え、自分で判断する、これが今、求められていることだと思います。思考停止し時代に流されないために。(H)     2008,,

 

 

200811

 

2008年を迎えて−すべてを相対化し批判する眼をもつことから始まる−

 

 昨年の()れに、一年を象徴(しょうちょう)する言葉が発表されたのを受けて、京都・清水寺の管長(かんちょう)が「()」という文字を筆書きしました。食品表示偽装・食品の産地偽装・耐震偽装・国会議員による事務所費問題・年金問題など数多くの事件が惹起(じゃっき)し、社会全体が「偽」で(おお)われているというよりも、実は社会の基盤(きばん)それ自体が「偽」そのものだったのではないかと思わずにはおれない、そんな一年だったと思います。そして、現在、何が真で何が偽であるのか、どこまで行けば真でどこまで行けば偽なのか、そもそも、真偽(しんぎ)(けっ)する基準が何であり、そのことを誰がどのように決めるのか・・・そのことが余り点検されないままに、真偽の沙汰(さた)が一人歩きしているという状況なのでしょう。

 漢字というものは面白いもので、「(にん)(べん)に「()す」という字を組み合わせて「偽」という字ができています。「偽」について「人之性悪、其善者偽也」(人ノ性ハ悪ナリ、()ノ善ナルハ偽ナリ)と荀子(じゅんし)が言う。人間の本性は悪に満ちている、それゆえに、善と見えるものであっても本性が悪なのだから「偽」であるとしか言えないと。考えてみますと、そもそも、どんなに「善行」と見える行為であっても、それが人間の行為である以上、どこかで「(いつわ)り」というものを(はら)み、また、偽りに(おちい)りやすいものなのでしょう。だからこそ、人間の行為については絶対化しないということが大事だと思います。もう少し言えば、人間や人間の行為を相対化して見るということが求められるのだと思います。つまり、真偽を考えるということは、そもそも人間とはどういう存在なのかを考えるということに行き着く問題だと思います。そして、私たちが生活する社会あるいは人間関係もまた、「偽」というものの上に成り立ってはいないかということが問われている問題だと思います。

 新年を迎えて思いますことは、人間の行為は「偽」という問題を常に孕んでいるものだという悲しみを胸に、この世の中の「真」「偽」すべてを相対化し批判する(まなこ)をもち、身近な生活から見直していくことからしか、不安を解消する(ほうと)がないのではないかと思います。またこの一年、ご指導ご鞭撻(べんたつ)のほど、よろしくお願い申し上げます。(H

 

 

2007927

 

「倒木更新」―“いのち”の歴史を抱えながら“いのち”は生きていく−

 

 先日、東京の東村山市にある「トトロの森」が保存されることに決まったというニュースを聞いた。そのとき、どことなく、長い間、私たちの“いのち”を生み出し、育んできた歴史が守られたような気がして、とても嬉しくなった。

 科学技術が進歩し、私たちの生活は便利になった。しかし、その便利さと引き換えに、何か満たされないもの、漠然とした不安・恐れというものを心に持ちながら生きているのが現代でもある。コンクリートとアスファルトに覆われた文明という名のジャングルの中で、物質生活を謳歌する私たちは、いつしか、人間が自然物であることを忘れてしまっていたかもしれない。

 そんな私たちに、森は人間が自然物であることを思い出させてくれる。森の中に入ると、悠久の歴史を見続けてきた歴史の証人たちが立ち並ぶ・・・そんな巨大な樹木群に生命の象徴を想う。樹木こそ“いのち”を生み出した源だと。

 

「倒木更新」(幸田文著『木』)

 

 「倒木更新」(とうぼくこうしん)。ある講演でそんな言葉を聞いた。樹木が寿命が尽きて倒れ、歳月によってその表皮に苔(こけ)が生える。その苔に他の樹木の種が落ち、倒木に守られながらその種の芽が出、根を下ろし、栄養をもらい、育っていく。そして、育った樹木が次第に大きくなり、今度はその倒木を抱きかかえるようにして伸びていく・・・。人の生涯というものもそのようなものだと言う。

 “いのち”の歴史が“いのち”を生み、その“いのち”が“いのち”の歴史を抱えながら生きていく。このダイナミックな“いのち”の営みに眼を開いていくことこそ、閉塞した時代社会を打開していくキッカケになっていくのではないかと思えてならない。(H)

 

 

2007211

 

−あなたが大切だ−

 

 言葉は時として、人を傷つけるものであったり、人を勇気づけるものであったり・・・。

そういう中で、心の中に響いて残っていく言葉って、一体、どれほどあるのでしょうか。

 

          命は大切だ。

          命は大切に。

          そんなこと何千何万回言われるより

             「あなたが大切だ」

          誰かがそう言ってくれたら

          それだけで生きていける。

                           (AC公共広告機構)

 

 この言葉に出合ったとき、何とも言えないくらい嬉しくなりました。多くの言葉が投げかけられてくるけど、「私」という存在を本当に認めてくれる言葉は少ないのです。

 でも、この標語にあるように、「あなた」と呼びかけてくれる言葉・・・この言葉を私たちはどこかで待っていたのかもしれません。私という存在を丸ごと認めてくれる、そんな言葉を・・・。

 多くの言葉よりも、「あなた」と呼びかけてくれる言葉の方が、「私」という存在の具体的な姿を見つめてくれているような気がしてなりません。私たちはただ漠然と生きているのではありません。

 悲しいことや辛いこと、嬉しいこと、切ないこと、毎日毎日の具体的な生活の中で起こってくることに振り回されながら、時には傷つきながら生きている・・・自分と言うものを見失いそうになるし、自分を傷つけ、他人を傷つけそうになる・・・。だれかに、そんな「私」を発見して欲しい・・・。

「あなた」という呼びかけは、そんな「私」に眼差しを向け、「私」を発見してくれた言葉ではないかと思います。(H)

 

20061118

 

<ひと>を殺めてはならない

 

殺人も自殺も同じ根をもっています

他人を殺めることも自らを殺めることも、「殺」の対象が<ひと>である限り同じ

そもそも、<ひと>とは誰かと寄り添いながら生きるもの

誰かの「助け」があって、支えがあって生きているもの

静かに目を閉じてみる・・・自分を支えている<ひと>の顔がきっと見えてくるはず

<ひと>は誰かを必要として生きている。そして、あなたは誰かに必要とされている

そのことに気がついたとき、そこにはきっと温かい空気が包んでいるのでしょう

いじめを苦にした自殺・・・あなたは<ひと>としてどのように思いますか

辛いいじめにあっている あなた、

あなたを愛し、必要としている誰かがいることを忘れないで

世の中には、あなたの知らない大きな世界があるのです

いじめをしている あなた、

苦しみや悲しみに耐えている友だちに優しくしてください

いじめは、いじめをしている あなたから、

<ひと>としての優しさや温かい空気を奪っています

<ひと>として大切な優しさや、

<ひと>は寄り添いながら生きるということを忘れないで

<ひと>は<ひと>としてしか生きられないのですから・・・

 

2006725

 

HP「法蔵」開設にあたって☆

 

急速に変化する社会、すさんだ人間関係

「社会」という名の世間に押しつぶされていくような感覚・・・ 

どこからともなく沸いてくる、生きることの心細さ・不安の中で

いつしか、わたしたちは

生きることの‘感覚’を失い

‘表現’というものを失ってしまった・・・

≪生きるとは表現すること≫

今から約700年前、人間の深い悲しみと苦悩に向きあった

一人の仏者・親鸞聖人

親鸞聖人のことばを温泉街の小さなお寺から社会に向けて発信します

渇ききった心に潤いを取り戻すために・・・

人が人として生きることの≪表現≫を回復するために・・・

地方の長引く景気低迷という厳しい社会状況の中、ご門徒を初めとする多くの方々のお力添えによって、8年越しで進められてきました本堂建設工事が終了し完成、2006年8月3日に引渡しされました。そして、さる11月5日、有縁の方々が見守る中、本堂落成慶讃法要を厳修しました。ご門徒の願い、さらには、混迷する時代社会に生きる人々の苦悩に寄り添っていく“お寺”として再スタートします。