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人間に絶望しない−秋葉原で起こった無差別殺傷事件を受けて−
先日(6月8日)、東京・秋葉原で無差別殺傷事件〈通り魔事件〉が起き、7人の方の命が無惨にも絶たれました。休日の繁華街の歩行者天国で、よもや凄惨な事件が起ころうとは誰が想像したでしょうか。生々しい現場の状況がメディアを通じて明るみになるにつれ、背筋が凍るような感情をもつと同時に、混沌とした社会の闇・人間の闇の深さを思いました。そして、そこに見えてきたのは、若い人たちが抱えている将来への不安と現在への不満・人間関係の希薄からくるとてつもない孤独、自分を含めたすべてにおいての絶望です。これは、事件を犯したもののみならず、実は、現代社会に生きるほとんどの人の心の淵にある、少なからぬ「思い」かもしれません。その「思い」が一つのキッカケで事件にまで至ったのだと思えてなりません。つまり、いつでも起こりうる事件であり、また誰でもが加害者・被害者にもなりうる事件であると思います。その意味では、社会や人間が壊れていく危機的な状況にあることは間違いのないことだと思います。
このような事件を抱える社会状況について、仏教はどのように考え、どのように受け止めているのか。そして、こうした時代社会の問題に対して仏教はどのように応えていこうとしているのか・・・。なかんずく、浄土真宗は・・・。
ふと、親鸞聖人の言葉が浮かび、次のように解しました。
信心(=如来を信じる)とは、
人間に絶望しないということ。ましてや、自分自身に絶望しない
浄土とは、
人と人との「つながり」を回復する世界
念仏の教えは、
自分に絶望しないという教え。自分とは何かを問うていく教え
孤独ということは、自分が生きている社会の中で孤立状態にあるということです。それは同時に、他者が見えなくなるということでもあります。他者が見えなくなれば、また他者との出遇いによって生まれる新しい自分にも出遇えなくなるということになります。
私たちは何十年か人生を歩んでいきますと、自分が学んだことや経験を絶対的なものと確信します。これは一面、自分への「自信」にもなり、また「成功」の鍵となるとも言われますが、しかし、自分が学んだことや経験によって築き上げられた「知恵」というものは、決して、人間全体を包む知恵ではありません。その意味では、自分の知恵を絶対化してしまうと、小さな自分の世界を広い世界として受け止めてしまうのです。つまり、それが自己中心的な世界をドンドン作って行ってしまうと思います。
他者を知るということは、自分の小さな世界を開いていくということです。また広い世界を知れば、自分と同じような悩みを持つ人と出遇い、また自分の苦しみや悲しみを受け止めてくれる人とも出遇っていくこともできると思います。
今回の事件を通じて、これから、私たちが考えなければならないこと、また、しなければならないことを一緒に探っていきたいと思います。(H) 2008,6,13
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